2012年9月28日金曜日

ノアの方舟 5

  5.「ノアの方舟(第五章から十章:但し、「ネピリム」の物語を除く)」の物語は、大洪水について述べています。ノアは、アダムから数えて十代目、アダムが生まれてから、1,056年後に生まれています。アダムは、930歳まで生きたので、ノアが生まれる126年前に亡くなっていますが、ノアの父、レメクの代までは生きていました。つまり、神は、アダムが生きていたメレクの代までは、アダムの犯した罪を許しませんでしたが、アダムが死んで神に召されたことによって、その罪は許され、地ののろいは解かれることになったのです。ノアの誕生はその象徴です。ですから、レメクは、ノアが生まれた時に、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの(第五章二九節)」と言ったのです。
 創世記には、レメクという名の人物が、もう一人登場しています。妻たちに「レメクのための復讐は七十七倍(第四章二四節)」と言ったカイン家系七代目の子孫レメクです。この二人には共通点があります。セツの子孫であるレメクは、のろわれた土を耕す最後の者となり、彼の子孫(ノア家系)は、骨折り働くことなく土を耕す者となりました。カイン家系の子孫であるレメクは、カインの子孫であるが故に迫害された歴史に終止符を打ち、彼の子孫を、土を耕さない者の祖としました。アダムの子孫は、レメクの名によって、呪縛から解き放たれたのです。
 セツとカインの子孫には、もう一つ、共通の名前があります。エノクです。セツ家系七代目の子孫エノクは、メトセラを生んだ後、300年、神とともに歩み、神に取られて居なくなってしまいます。神は、エノクを、何処へ遣ったのでしょう。エノクが居なくなるのは、アダムの死から、57年後のことです。アダムの死は、地ののろいが解かれる事の象徴であり、それはすなわち、アベルの恨みと憎しみが治まり、地獄から開放された事を意味します。神は、アベルの呪縛から解き放たれて、町を建てたカインに、セツの子孫エノクを子として遣わして、カインが建てた町に、神とともに歩んだエノクの名を付け、エノクによって、カイン家系を安堵したのです。
 これらの話には、不思議な数字の符合があります。カインのための七倍の復讐、カインの子となったエノクは、セツ家系七代目の子孫。カイン家系七代目の子孫レメクための復讐は、カインの七倍に七を重ねた七十七倍。セツ家系七代目のレメクがなくなったのは、七十七倍に七を重ねた777歳。

 さて、神は、神の子アダムの罪のためにのろわれた地を清めるために、大洪水を起して、創造した人を地のおもてからぬぐい去ることにします。この時、アダムの死後に、セツ家系に生まれたノアに課せられた使命は、巨大な箱舟を造って、神の前に恵みを得たノアとその妻と、三人の子供と夫々の妻、清き獣と清くない獣、空の鳥と地に這う全てのものを、造った箱舟に入れて、洪水の間、その命を保つことです。
 神の怒りは激しく、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつもわるいことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう』(第六章五節から七節)」と言い、また、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上で道を乱したからである。そこで神はノアに言われた。『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう』(第六章十一節から十三節)」と言いました。
 しかし、神は誰を滅ぼそうとしたのでしょう。ノア以前のアダムの子孫は、皆、ノアが六百歳の時に起きる洪水の前までに死に絶えてしまいます。ノアとその子と妻達は、方舟に入って生き延びますから、この洪水でなくなるユダヤの民はいません。大洪水物語の本編は、「ネピリム」の物語の後から始まり、「バベルの塔」の物語の前で終わります。ネピリムは、アトランティス十王家の祖たちを示し、バベルの塔は、アトランティス滅亡を示していますから、大洪水物語は、アトランティスを中心とするギリシャ世界の崩壊と、ユダヤの民救済の物語です。
 神はノアに、「箱舟の長さは、三百キュピト、幅は五十キュピト、高さは三十キュピトとし、箱舟に屋根を造り、上へ一キュピトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい(第六章十五節)」と指示を出しますが、この指示は、真に、的確です。縦:横:高さの比が、30:5:3というのは、現代の大型輸送船を建造するための理想的な比率と、ほぼ等しい比率だからです。4万トン程度の排水量があり、神の使命を充分に果たせると言えます。余談ですが、長い間、雨が降る続いたことで、気温は、急速に下がった筈ですから、箱舟の中の動物達の殆どは、冬眠状態になったと思われますので、世話はさほど大変では無かったことでしょう。
 ノアは、預言者です。神はノアに言葉を預け、ノアは預かった言葉の通りに行動します。神がノアに預ける言葉は、ノア(預言者)に示す道であり、人々に対する啓示であり、未来に起こることへの予言です。ですから、大洪水物語にもこれらの要素が含まれている筈です。まず、数字ですが、物語には、回帰数が多く使われています。回帰数とは、例えば、1=一日、4=四季=1年、7=一週間、365=1年といった数字の事です。先にアダムの家系での回帰数7の符合について述べました。もう一つは、意味数で、例えば、太陰暦であったユダヤ暦では、1=新月=礼拝の日、2=夫婦(つがい)、15=満月といった数字の事です。では、これらの数字を基に、大洪水物語の経緯を見ていきましょう。
 神は、「あなたと家族とはみな箱舟に入りなさい。-中略-七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を地のおもてからぬぐい去ります(第七章一節から四節)」と言います。神が言葉を預ける日は、安息日ではあり得ません。従って、洪水が起こる7日後も安息日ではありません。神は、ノアが仕事をすることが出来る日(安息日でない日)を選んで洪水を起こます。四十日は、4=1年の10倍の40年、それに40夜を重ねますから随分と長い間ということを表しています。「それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。水はしだいに減って、10月になり、十月一日に山々の頂が現れた(第八章三節から五節)」。150日は、5回の満月が経過する日数であり、五ヶ月を意味します。ユダヤ暦では、一月は29日であったり、30日であったりするので、15もしくは、30の倍数を1月の回帰数としています。洪水が始まった二月十七日の五ヵ月後の七月十七日に、箱舟はアララテの山に留まります。水は、洪水発生の190日後(40日プラス150日)のユダヤ暦9月1日の礼拝の日に減り始め、次の月、十月一日の礼拝の日に山々の頂が現れます。
 40日後、ノアは、箱舟からからすとはとを放ちます。からすは戻ってきませんが、はとは、足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟に戻ってきます。七日後、再びはとを放つと、オリーブの若葉を銜えて戻ってきます。さらに七日後、三度はとを放つと、はとは戻ってきませんでした。からすは悪魔の象徴であり、はとは守護天使の象徴です。神は予めノアに、箱舟に清くない獣(からす=悪魔)を乗せるように命じてます。しかし、神は、ノアが箱舟から出た時、彼と共にいたすべての生き物とも契約を交わすことになっていました(第六章十八節)から、からすは箱舟を出る前に放してしまわなければなりませんでした。はとに姿を変え、神からノアとその家族を守る使命を与えられていた守護天使は、初めて放たれた時、安全の確認が出来ないため箱舟に戻り、再び放たれた時には、地に、エデンの園と同じ様に、食べるの良い木であるオリブの木が生えている証を持ち帰えり、人に良い知らせをもたらす守護天子の役目を果たしました。三度放たれた時は、安全である地を見て、役目が終わったことを悟り、箱舟には戻りませんでした。ノアは、守護天使であるはとが戻らない様子を見て安堵します。
 「六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもてはかわいていた。二月二十七日になって、地は全くかわいた(第八章十三節から十四節)」。一月一日、ユダヤの民にとって一年で最も重要な礼拝の日に、地の上の水はかれます。二月二十七日は、洪水が始まった二月十七日から数えて、一年と10日目に当たります。ユダヤ暦の1年は355日なので、太陽暦の一年(365日)目という回帰数に当たります。ユダヤには、過ぎ越し祭という重要な行事があり、それは、神が、エジプトの民が、ユダヤの民の長子を殺した報復として、エジプトの長子を皆殺しにする時に、戸口に羊の血の印のあるユダヤの民を過ぎ越したことに由来すると云われていますが、実は、過ぎ越しは、ノアの方舟が、洪水という神の怒りを過ぎ越したことが起源であり、この物語が後の人々への過ぎ越しの啓示となっているのです。
 ここで、洪水に纏わる回帰数、神の預言から洪水が起こるまでの7日間、雨が降り続く四十日四十夜、水が減る百五十日、からすとはとが放たれる四十日後、再びはとが放たれる七日後、三度はとが放たれる七日後を全て加算すると、291日になりますが、この数値には、回帰数4が含まれていることで、291年と読みかえることができます。ユダヤの民の祖といわれるアハブラハムが生まれるのは、洪水の二年後にセムの子アルバクサデが生まれた290年後で、洪水後、291年目です。これは、アブラハム誕生の予言です。
 ノアは、二月二十七日に、神に促がされて箱舟を出ました。「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた(第八章二十節)」。これは、ノアが、「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった(第六章九章)」であったことの証で、ノアが、のろわれた地の産物を供え物にしたカインとは対象的に、正しい祭り事をしたことを示しています。神は、燔祭の香ばしいかおりをかいで、「わたしはもはや二度と人ゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない(第八章二二節)」と決意します。人は、幼い時=未熟=無知ゆえに、悪い事を心に思い図る者だから、今後は、アダムのように、無知ゆえに人が犯した罪を理由に地をのろうことはしない。のろわれた地を清めるために、洪水を起すことはしないということです。
 神は、使命を果たしたノアとその子らを祝福して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない(第九章一節から三節)」と言います。この言葉は、先に、「罪と罰は、因果応報であり、全ては人(カイン)の行いに起因している。」と述べたことと同様に、贖罪と免罰、善行と祝福も因果応報であることを示しています。アダムとノア以前の子孫は、「あなたは一生、苦しんで食物を取る。-中略-あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る(第三章十七節から十九章)」という神の罰を受け続け全うすることによって、罪を贖ったので、神は、洪水を起して、のろわれた地を清める事で、ノア以降の子孫に、罰を与えるのをやめます。また、ノアとその家族が、箱舟を造って、洪水の間、動物達の命を保つという善行を行ったので、すべて生きて動くものを食物として与えるという祝福をします。これによって、無知によってアダムが犯した罪に端を発する因果律の時代が完結して、新しい時代が到来したことを示しています。血は、アベルの恨みと憎しみの象徴ですから、血のままで食べるなとは、動物に対して、恨みや憎しみを抱かせるような行いをせず、差し出した命に感謝して食べるようにとの戒め(啓示)です。神は、さらに、「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう(第九章五節)」と言います。これは予言です。後に、モーセが世に現れようとした時に、エジプト人は、畏れてユダヤの長子を皆殺しにしますが、神はこれに報復して、エジプトの長子を皆殺しにします。
 新しい時代が到来する時、神が人と新しい契約を取り交わすということが、ユダヤの約束事です。神は、「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることなく、また
地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう(第九章十一節)」と言い、そのしるしとして、雲の中に虹を置きます。虹は、止まない雨がないことの象徴であり、契約の証です。
 この物語は、神がノアに与えた預言によって締めくくられ、最後に、ノアの子、セム、ハム、ヤペテとその子孫が誰で、何処に住んでどの氏族の始祖になったかが書かれて、終わっています。神は、ノアの口を借りて、「彼は言った。『カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える』。また言った、『セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ、神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ』(第九章二五章から二七章)」と予言しました。
 ノアは、この予言をする前に、酒に酔って天幕の中で裸になっています。裸は、善悪を知る木の実を食べる前のアダムとエバが、「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった(第二章二五節)」とあるように、無知を象徴しています。セムとヤペテが、父の裸を見ずに、着物で裸を覆うのは、善悪を知る木の実を食べた後にアダムとエバが、イチジクの葉で体を隠すこと、すなわち、無知に対しての有知を象徴しています。ハムが父の裸を見て、何もせずに兄弟に告げる行為は、ハムが人の無知を放置したことを意味しています。「カナンはのろわれよ」とありますが、神は人をのろいませんから、カナンは、カナンの地のことを示していて、カナンの父(始祖)であるハムが、人々の無知を放置したために、後に、カナンの地が大いに乱れることを示しています。「彼」とは、カナンに住む人々のことで、「しもべは」は、神のしもべである預言者のことで、カナンの地は預言者に統治されて、人々はその家族と同朋に仕えることなることを示しています。「セムの神」とは、セムの子孫から、次の時代を指導する「主はほむべきかな」主がほむべき預言者、アブラハムが誕生する予言です。カナンの地は、アブラハムに統治されることになります。「神」はアブラハムの事で、「ヤペテ」はヤペテの子孫が住んだ海岸の地の事で、その地が、アブラハムが統治した国々(セムの天幕)に加えられて、大いに栄えたこと、カナンの人々がその統治を手助けすることを示しています。
 観て来た様に、創世記は、荒唐無稽な作り話ではありません。聖書は、象徴的な事物や、矮小化された比喩によって、預言者(人)に道を示し、人々に啓示を与え、未来に起こることを予言しているのです。エデンの東ノドの地は、罪を犯したカインが、あてもなく希望もなく流離った地です。しかし、ノドはのろわれた地ではありません。アダムが亡くなって、アベルの恨みと憎しみが治まると、神に遣わされたエノクの名を町付けて繁栄していきます。ユダヤの神は、怒れる裁きの神であると思っている人も多いようですが、罪と罰、贖罪と免罰、善行と祝福の因果律という法の守護者であり、人との契約を忠実に履行する庇護者であるというのが、本当の姿であると私は信じています。
 ちなみに、950歳まで生きたノアは、アブラハムが誕生した時には、まだ、生きていたことになっています。アダムの時代は、贖罪の時代であり、犯した罪に起因する罰を受け続けて、許されて神に召されることで新たな時代の礎と成りました。ノアの時代は、祝福の時代で、贖罪によって清められた地に、祝福されらされた人々が繁栄していきます。それは、ノア以降の時代、アブラハムの時代以降にも受け継がれていきます。ですから、ノアはアブラハムが誕生するまで生きている必要があったのです。

カインとアベル 3,4

 3.「カインとアベル(第四章)」の物語は、善と悪、罪と罰と贖罪について述べています。カインは、神への供え物を神が顧ない事に憤ります。その怒りは嫉妬と成って、弟のアベルへ向けられ、カインは、遂に、アベルを殺してしまいます。ここで、問題なのは、カインが土の産物を供え物にした事です。土は、アダムの罪によってのろわれています。のろわれた土の産物を供えることは、神をのろうことにならないでしょうか。神は、カインの供え物を顧みずに、こう言います。「もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口で待ち伏せています。それは、あなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。(第四章七節)」と。
 ここで言う罪とは、悪魔の事です。カインは、自分の行いが善か悪かを知りません。悪魔は、その無知に付け込んで、カインに罪を犯させようとしますが、カインはその誘惑を、有知をもって退けなければならないと、神は言うのです。しかし、カインは悪魔の誘惑に負け、アベルを殺してしまいます。人(カイン)は、エバやアダム(土及び人間)のように、無知であるが故に悪魔に唆されて、再び罪を犯してしまうのです。罪を犯したカインは、アベルの居所を尋ねる神に、知らないと嘘を吐きます。もはや、悪魔の言うが儘です。

 蛇=悪(魔)とエバとアダムの犯した罪により、土は、最ものろわれた霊的な存在である悪魔が這い回る場所にされることによって、霊的にのろわれ、いばらとあざみを生じる痩せた土地にされることによって、この世的にのろわれることになりました。地を這う悪魔は、なぜ、カインを唆してアベルを殺させたのでしょうか。悪魔は霊的な存在ですから、悪魔が活動を続けるために必要なエネルギーもまた、霊的なものの筈です。すなわち、怒りや恨みや憎しみなどの負のエネルギーが、悪魔の原動力です。人を恨んで死んだ人の魂は、死後も負のエネルギーを出し続ける筈ですから、悪魔は、この魂を虜にして、負のエネルギーを奪い、活動を続けようとするのです。ですから、カインを唆してアベルを殺させ、死んだアベルの魂を虜にしたのです。「この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けた(第四章十一節)」とは、この事を示しています。哀れアベルは、カインに殺され、恨みと憎しみに苛まれながら、悪魔の虜にされて地獄に居続けることになったのです。
 これは、教訓です。人は、善悪を知る父と母から生まれたからといって、直ちに、善悪を知る者にはなりません。無知は、罪ではありませんが、時として、人に悪しき行いをさせることがあります。この時、神の言葉に耳を傾けて、悪魔の誘惑を退けることが出来るかどうかが、試されているのです。
 カインは、犯した罪のために罰を受けることになりますが、全ては、カインの行い(アベルを殺した事)によって惹き起こされます。アベルの魂は、この土地(悪魔)に留まり(捕われて)カインをのろい続けますから、カインは、この土地を離れざるを得ません。しかも、土地(アベルの魂)は、カインを恨んで、彼に収穫物を与えませんから、もはや、土を耕す者には戻れず、放浪者として生きて行くほかなくなります。神は、カインにその事実を告げますが、関与はしていません。つまり、罪と罰は、因果応報であり、全ては人(カイン)の行いに起因していることを示しています。
 カインは、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならなければなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう(第四章十三節から十四節)」と神に言います。カインは、与えられた罰の重さから、犯した罪の深さを知ることになりますが、罰が、自分の行いに起因していることに気づいてはいませんし、罰を受け続ける事(応報)こそが、犯した罪を購う(贖罪)唯一の道である事にも気が付いていません。神は、道を示す代わりに、カインにしるしをつけて、「だれでもカインを殺すものは七倍の復讐をうけるでしょう(第四章十五節)」と言って、カインへの報復を禁じます。恨みや憎しみによって、罪人に復讐したり報復することは、悪魔を利するだけである事を知っている神は、人にそれらを禁じるのです。
 人は、神の試練を乗り越えて、自らの力で、善悪を知る者とならなければなりませんが、与えられる罰や祝福が、人の行いに起因しており、罰を受け続けることでしか罪を購う(贖罪)ことができないことも知らねばなりません。ですから神は、カインに道を示さず、生き続ける事(罰を受け続ける事)で罪を購い、善悪を知る者となることを望んだのだと思います。
 その後、カインは、エデンの東、ノド(流離(さすら)い)の地に住んだといわれています。カインは、町を建て、自分の子の名であるエノクと名付けます。アダムから数えて七代目レメクの子供達は、それぞれ、「天幕に住む家畜を飼う者の先祖」「琴や笛を執るすべての者の先祖」「青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者」になったとされています。レメクは妻達に、「わたしは受ける傷のために人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍(第四章二三節から二四節)」と言います。
 カインが、自ら神の前を去って、流離いの地(ノド)に住んだということは、自分の宿命を受け容れて生き続けることを選択したからです。妻をめとり、子を生したカインが建設した町に、子供の名を付けたのは、自分のようにのろわれることが無いように願ったためと思われます。先に述べたように、カインに与えられた罰は、自らの行いに起因しており、神が彼をのろって罰を与えた訳ではありません。カインに罰を与えない神が、その子孫に罰を与える筈はありません。従って、カインの子孫達が繁栄していくことは、神の意志に背く事にはなりません。しかし、カインの子孫達は、カインの子孫であるが故に、人々から迫害を受けたに違いありません。神は、カインに復讐することは禁じましたが、その子孫を迫害することは禁じていないからです。カイン家系の中興の祖であったであろうレメクが、妻達に言いたかった事は、「自分はカインのように、怒りや嫉妬に駆られて人を殺したことは無く、迫害から身を守るためにやむを得ず人を殺したこと。その行い(罪)によって、カインと同様に重い罰受ける覚悟があり、その罪の深さと罰の重さは、カインの十倍(十人以上の人を殺した)以上だから、神は、わたし(レメク)を殺す者に七十七倍の復讐をするだろう。」ということです。おそらくレメクは、故無き迫害から、家族や子孫を守るために、その罪と罰を一身に背負うために、一人で迫害者に立ち向かったのだと思います。
 最後に、神がアベルの代わりにアダムに授けた男の子、セツのことが書かれています。そのセツにも男の子が生まれ、エノスと名付けられます。「その時、人々は主の名を呼び始めた。(第四章二六節)」とあるのは、神の子アダムの家系が繁栄することによって、神が人をのろってはいないことを知って、神に感謝するようになった事を示しています。
 この物語は、アダムの3人の息子の生涯を通じて、典型的な人の生き様が描かれています。カインは、悪魔に唆されて人を殺し、その罪によって受けた罰を贖うために、ノドの地を流離い生き続け、土を耕さない者の始祖を残します。アベルは、悪魔に唆されたカインに殺され、その恨みと憎しみのために悪魔の虜になり、恨みと憎しみに苛まれながら、地獄に居続けます。セツは、アダムの子としての生涯を全うして、土を耕す者の子孫を繁栄させます。
 
  4.さて、創世記には、突然、物語の脈絡とは無関係な短い物語が挿入されています。「バベルの塔(第十一章一節から九節)」の物語がそれです。創世記によれば、洪水の後の世界は、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテの子孫が、その氏族と言語にしたがって、その国々に住んだことになっていますから、「全地は同じ発音、同じ言葉であった(第十一章一節)」ことはありません。だから、この物語が、洪水前に起きた出来事だというつもりもありません。
 先に述べたように、聖書や神話などは、歴史的事実を象徴的な事物や、矮小化された比喩によって表現していると、私は考えています。聖書は、ユダヤ・キリスト教の世界観と価値観に基づいて書かれ編纂されています。しかし、世界に存在する宗教的世界観と価値観は、ユダヤ・キリスト教だけではありません。その対極あるものに、ギリシャ・ローマ的世界観と価値観があります。大洪水以前のギリシャ世界は、プラトンが書き残した書物に依れば、太平洋に浮かぶ巨大な火山島と、リビアに至る北アフリカとイタリア東部に至るヨーロッパを統治していたアトランティスと、ギリシャとその周辺を統治していたアテナイとに広がり、当時の世界では、全地と言えるほど広大な地域に広がっていました。当時のギリシャ都市は、小高い丘の上に築かれたアクロポリスという神殿を備えた王の居城を中心に、アクロポリスの丘を取り囲むように町が広がっていました。
 「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのをのがれよう(第十一章四節)」とあるのは、ギリシャ人が、アクロポリス(塔)を中心に、都市を建設して、その中心にある神殿(頂)を、天にあるギリシャの神々に捧げて、神殿に人々を集めて神々の名の下に祭事を行うこと(名を上げ)により、人心を纏めて、広大な領地を統治していった事を示しています。
 プラトンに依れば、アトランティスの最盛期、巨大な火山島を支配していたアトラス王は、アクアポリスに隣接する大平原に、一万台の戦車と戦車用の馬十二万頭と騎手十二万人。戦車の無い馬十二万頭とそれに騎乗する兵士六万人と御者六万人、重装歩兵十二万人、弓兵十二万人、投石兵十二万人、軽装歩兵十八万人、投槍兵十八万人、千二百艘の軍船のための二十四万人の水夫が招集できるようにしていたとあります。アトランティスには、アトラス王家の他に、九つの王家があり、リビアに至る北アフリカとイタリア東部に至るヨーロッパを、分割統治していました。アトランティスは、その強大な軍事力を背景に、中央アメリカから南米大陸、アフリカ西部から南部、さらには、当時温暖な土地であった南極大陸にまで植民地支配を拡大していきました。ユダヤの神が、この様子を見て、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。(第十一章六節)」と言ったのは、この事を示しています。
 しかし、アトランティスの中心地であった巨大な火山島は、異常な大地震と洪水によって、一夜にして水没してしまったと言われています。「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう(第十一章七節)」とは、この事を示しています。バベルには、混乱するいうと意味がありますから、ここでいうバベルは、町の名前ではなく、火山島水没後の混乱した状態を示していると考えられます。シナルの地とあるのは、シナルの地に、ハムの子孫のニムロデが統治したバベルという名前の町があったので、「バベルの塔」の物語をここに挿入するための辻褄合わせです。れんがとアスファルトは、高度な文明を示す比喩と思われます。
 創世記第六章一節から四節にも、「バベルの塔」の物語と同様、突然挿入された、物語の脈絡とは無関係と思われる「ネピリム」の物語があります。ギリシャ神話には、人と神とが交わって、生命が誕生する話が沢山出てきます。巨人であったかどうかは、知る由もありませんが、オリンピアに在ったゼウス坐像が、高さ12メートルあったことからも、古代ギリシャの人々は、神は巨大な生命体だと認識していました。ですから、人と神とが交わって誕生したネピリムも、人と比べて遥かに大きな生命体であったと思われます。
 アトランティスの建国神話に依れば、海神ポセイドンと火山島に住む人の娘クレイトが結ばれ、双子五組十人の子供が生まれて、アトランティス十王家の祖となったといわれています。「彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった(第六章四節)」とあるのは、昔(大洪水以前)、ネピリムは、アトランティス十王家の祖のような有名な勇士であったという事を示しています。

2012年9月23日日曜日

エデンの東1 1,2



創世記によれば、アダムとエバは、善悪を知る木の実を食べたために、神からエデンの園を追われてたといわれています。私は、聖書や神話などは、作り話ではないと考えています。シュリーマンがトロイを発見したからと言うわけではなく、人々が長い年月語り継いで来た物語には、語り継ぐだけの価値と意味が込められていると思うからです。20世紀初頭辺りから、実証主義は、歴史などの社会学分野にも広がり、経験的な事実に基づいていないとして、聖書や神話などの書物を、客観的な史料とは成り得ないとして、史料から排除してしまいました。しかし一方で、科学的に、客観的に検証し得ない事象を全て、歴史的事実から除外してしまうと、有史以前の人類の歴史は、荒唐無稽な作り話によって構成されることになってしまいます。ですから、私は、聖書や神話などは、作り話ではないという立場に立ち、その逸話は、経験的な事実その物ではないが、歴史的事実を象徴的な事物や、矮小化された比喩によって表現している考えているのです。
 例えば、ノアの洪水伝説と同様な洪水伝説は、世界各地に存在しますが、実証主義によれば、これらの伝説は、客観的な史料とは成り得ないので、洪水があったという事実も否定されてしまいます。しかし、世界各地で、同じ様な荒唐無稽な物語が創作され、長い間、伝承されて来たというのは、少し、無理があります。ノアという人がいて、大きな方舟を造って、自分の家族と動物達を洪水から救ったという事実があったかどうかは、ともかく、世界規模の洪水は、在ったと考えるのが自然だと思います。
 グラハム・ハンコックが著した「神々の指紋」によれば、16世紀に書かれた地図に、南極大陸の正確な海岸線が描かれています。また、同年代の地図には、ベルギーまで氷に覆われているヨーロッパが描かれています。これらの地図は、航海や測量によって緯度経度を算出して描いたものではなく、古くから伝承されて来た地図を元に、描かれています。「神々の指紋」の論点の一つは、この伝承された地図が、何時の時代に作成されたのかということです。人類は、最古の文明であるエジプト文明から、18世紀頃までは、高度な航海術や経度測量技術は持ち得ていません。ですから、更に時代を遡った大洪水以前に、高度な科学技術を持つ文明があって、伝承されて来た地図は、その文明が作成した地図だというのが、グラハム・ハンコックの見解です。
 グラハム・ハンコックは、今から一万年から一万五千年前に、大規模な地殻変動によって、南極大陸やアラスカ、シベリアが、今の極圏内に移動したために、大洪水などの天変地異が発生して、南極大陸やアラスカ、シベリアは、氷に覆われ、高度な科学技術を持つ文明は、滅んでしまったと主張しています。現在では、各地の同時代の地層から、マンモスやトクソドンなどの大型哺乳類の屍骸や骨が、大量に発見されたことなどから、地球規模の大災害が発生したことが、確認されています。だからといって、聖書や神話などの書物に書かれている事が、全て、歴史的な事実であると言うつもりもありません。また、宗教裁判や魔女狩りが復活しても困ります。
 さて、話を創世記に戻すと、創世記は、大きく3つの物語、「天地創造と原初の人類」「イスラエルの太祖たち」「ヨセフ物語」に分けられます。しかし、私は、創世記は、大洪水以前と以後に分けられるべきだと考えています。大洪水以前の創世記には、「天地創造」「アダムとエバ」「失楽園」「カインとアベル」「ノアの方舟」「バベルの塔」の6つの物語があります。「バベルの塔」の物語は、大洪水以降の物語だとするのが定説ですが、私は、大洪水以前の話だと考えています。以下は、大洪水以前の創世記に対する私の勝手な解釈です。
 
  1.「天地創造(第一章)」の物語は、宇宙及び太陽系と地球の形成と人類の誕生について述べています。

  2.「アダムとエバ(第二章)」と「失楽園(第三章)」の物語は、神の国と地上及び、人と動植物及び、善と悪の関係について述べています。エデンの園は、神が歩き回っていることからも神の国、すなわち、あの世であります。あの世は、魂の精神世界ですから、ここに置かれた人は、霊的存在であったと考えられます。善悪を知る木は、受肉化、肉体を持ってこの世に生きる人間を象徴しており、命の木は、精霊化、人間の霊的存在である精霊を象徴していると考えられます。エデンの園に、人の手助けのために造られた獣や鳥も、同様に、霊的な存在です。神は、人のあばら骨から女を造りますが、これは、人= 男性すなわち地球、女すなわち月を象徴した話だと考えられます。現在、月は原始地球が、火星ほどの大きさの天体と激突した結果、形成されたとされています。つまり、月は地球の一部分から形成された訳です。地球の六分の一もの体積を持つ月は、衛星というよりは、二重惑星というべきで、地球と月は、誕生の経緯からも、ニつで一つの惑星を構成していると言えます。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。(第二章二四節)」とあるのは、そのことを示しています。
 蛇は、悪魔の象徴です。明けの明星といわれた大天使ルシフエルは、地上で悪の限りを尽して、やがて、天へ戻る時に、その身を龍に変身させて天へと向いましたが、神は、ルシフエルを天へ入れることを許さず、大天使ミカエルを遣わして、撃退することにしました。ルシフエルは、ミカエルによって撃たれ、地に落ちてその身は蛇となって、暫くの間は体を動かすことも出来なくなりました。
 その蛇=悪(魔)は、人(女)を唆して、人に罪(善悪を知る木の実を食べること)を犯させます。人(女)は、悪しき者ではないが、罪を犯したために罰を受けることになります。人(男)も、悪しき者ではないが、蛇に唆された人(女)に言われるがままに、罪を犯したために罰を受けることになります。人(女)に与えられた罰は、生みの苦しみを増す事、人(男)に与えられた罰は、人(男)のためにのろわれた地から、一生、苦しんで食物を取ることです。そして、神は、彼らに、皮の服を造って着せて、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。(第三章二二節」と言って、エデンの園から追い出してしまいます。この時、人(男)はその妻に、エバ(生きる者または生命)と名付けます。月の化身であるエバが、全て生きた者の母の象徴であるからです。
 あの世であるエデンの園から追い出されるということは、この世である地上に、肉体を持って(皮の服を造って着せてもらい)生まれるということです。神は、善悪を知る木の実を人が食べると、われわれのひとりのように、善悪を知るものとなり、エデンの園に居られなくなるので、人にその実を食べることを禁じていました。大天使であった悪魔は、その事を知っていて、人(女)を唆してその実を食べるように仕向けたのです。しかし、神は、悪魔に罰を与えますが、エデンの園から追い出してはいません。悪魔に、肉体を持ってこの世に生まれることを許さず、一生(未来永劫)、腹で這いあるき、ちりを食べる最ものろわれた霊的な存在であり続けさせるためです。
 さて、神は、人が善悪を知る木の実を食べるまでは、命の木の実を食べることを禁じてはいません。この事は、肉体を持って地上に生きる人は、永遠に生きることは許されず、精霊となって、あの世で暮す人には永遠に生きることが許されるということを意味します。神は、エデンの東に、ケルビム(智天使もしくは守護天使)と回る炎のつるぎ(雷)を置いて、命の木を守らせ、人を遠ざけます。