2012年8月9日木曜日

樽は世界を巡る

                   
   樽は、ここにあるワイン樽のように、酒や油などを詰める容器です。樽は、その頑丈さと
密閉性の高さから、運搬だけでなく、貯蔵にも用いられてきました。金属やプラスチックの
容器が登場するまで、樽は、運搬や貯蔵に用いられる容器の主役でした。詰める物や用途に
よって、様々な容積の樽があります。酒や油などの製品は、樽に入れられたまま、取引され
ることが多かったために、樽:バレル:barrelは、容積を表す単位としても使用されるよう
になりました。現在でも、石油は、バレル:barrel:bblという単位で取引されています。
 このバレル:barrel:bblは、ヤード・ポンド法(Imperial unit)における容積を表す単位
です。アメリカの油田で、42ガロン=約159リットルのワイン樽が使われていたために、この
容積が取引単位となりました。アメリカとイギリスで、ガロン:gallonの容量が異なる(米:
3.79リットル、英:4.55リットル)ので、先程のバレル:barrelも、米:158.99リットルに対
して、英:159.1リットルと僅かに異なります。因みに、42ガロンのワイン樽は、ティアス:
tierceと言います。
 さて、ワインは、古くは、羊の皮袋やアンフォラなどの陶器に入れられて運搬・貯蔵され
ていましたが、ローマ帝国が、ガリア人と交流(実は戦争)するようになると、ガリア人が使
っていた樽が、用いられるようになりました。一方で、ワインの製法もガリア人へ伝わり、
現在のフランスやドイツでも、ワインが製造されるようになりました。
 16世紀半ばになると、ワインは、大航海時代のヨーロッパから、戦国時代の日本へ伝えら
れました。信長や秀吉が愛飲していた事は、有名です。彼らが飲んでいたのは、ポルトガル
のワインですから、葡萄に砂糖を加えて醸造した甘味の強いポートワイン(ポルト酒とも言
う)です。樽に詰められたポートワインは、リスボンの港から船に積まれて、喜望峰を周り、
ゴアとマラッカの港を経由して、当時、ポルトガルの貿易拠点が在ったマカオに到着します。
マカオで、中国の生糸や絹織物や硝石と伴に、再び船に積み込まれたポートワインは、漸く
長崎や平戸へ到着します。
 17世紀初頭には、ポルトガルを併合したスペインやイギリスやオランダが、次々と東イン
ド会社を設立して、インドや東アジア貿易の覇権を争いました。オランダは、アンボイナ事
件で、イギリスをインドネシアからインドへ退けて、ジャカルタに拠点を置きました。一方、
スペインも、太平洋航路を開拓して、フィリピンのマニラに拠点を置いて、東アジアと交易
をしました。江戸幕府は、キリスト教を嫌って、スペイン・ポルトガルを遠ざけて、オランダ
と交易をするようになりました。この頃になると、ヨーロッパとアジア間の航路が整備され、
定期的に、輸送船団が行き交うようになりました。
 しかし、当時の航海は、海賊船やサイクロンとの遭遇や敵対国の戦艦との交戦など、危険
がいっぱいでした。ですから、輸送船団は、全長と幅の比率が4:1と長形で、吃水が浅く速度
が出せるガレオン船を採用して、大砲を装備し、武装した乗組員を乗船させて、護衛の戦艦
を引き連れていました。ガレオン船は、積載能力が高く、船長1メートル当たり、10トン程
度の積載能力を持っていました。全長100メートル近い、排水量1,000トンを超える大型商船
も存在し、大砲を装備し、武装した乗組員を乗船させて、大量の弾薬や食料や日用品を積載
してもなお、かなりの重量の積荷を運搬することができました。
 積載量(=排水量)は、質量の単位であるトン:ton:tで表わされますが、このトン:ton:t
も、樽を表す古い英語'tunne'に語源を持つ、ヤード・ポンド法の質量の単位です。ヤード・
ポンド法に於ける1トン:ton:tは、一番大きなワイン樽:タン:tunの容積である、252ガ
ロンの水の質量です。252ガロンの水の質量は、2240ポンドで、約1016.05kgです。17世紀初
頭に、オランダの輸送船団が、東インドから600,000ポンドの香辛料と交易品を持ち帰ったと
いう記録がありますが、これは水を詰めた42ガロンのワイン樽、約1,600樽分に相当します。
 樽は高価な容器ですから、当然、高価な商品が詰められます。オランダ東インド会社は、
日本との交易で、江戸初期には、ベンガルやトンキン産の生糸で、銀を手に入れていました。
江戸中期になると、羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを持込んで、銅、
樟脳、陶磁器、漆器などを手に入れていました。樽に詰められたこれらの高価な交易品や香
辛料は、ジャカルタの港から輸送船に積まれて、インドを経由して喜望峰を、周ってアムス
テルダムへ到着しました。
 十字軍の遠征が失敗に終わり、暗黒と言われた中世が終焉して、ルネサンスというローマ
懐古運動によって、開放的で自由な世界観が、イタリアからヨーロッパ全土に広がると、人
々は、イスラム世界から伝来した羅針盤を握り締め、船に帆を張り、大海原へ出航して往き
ました。
 大航海時代と呼ばれたこの時代、ヨーロッパに、ブルジョアジーといわれる新たな富裕層
が出現します。キリスト教の禁欲的な倫理観から開放されたブルジョアジーは、空の樽を巨
大なガレオン船に積んで、贅沢で珍しい文物を求めて、世界中を巡らせました。
 ヨーロッパの港に到着した船から、香辛料や高価な交易品が詰め込まれた樽が降ろされる
と、それらは、ブルジョアジーへ手渡されました。富を手にしたブルジョアジー達の限りな
い欲望は、王や軍隊を唆して、かつてのローマ帝国のように、更なる富を求めて、アフリカ
やアジアの国々を侵略して行きます。欲望に唆されたヨーロッパの国々は、侵略した植民地
の覇権を巡って互いに争い、やがて、戦乱は、世界中へと広がって行きました。



2012年8月6日月曜日

日本公衆電話会


 最近、しきりと、携帯電話会社からDMが届きます。家内の携帯電話が旧式なので、これを、
新しいものへ交換してくれと言う勧誘の知らせです。携帯電話が普及して、世の中は、随分と
便利になりましたが、一方で、姿を消してしまった物も、沢山あります。携帯電話の普及と伴
に、姿を消した物の一つに、通称赤電話と言われた公衆電話があります。赤電話は、煙草屋の
店先や郵便局などにあり、以前は随分と重宝しました。映画「三丁目の夕日」でも、昔懐かし
いタイル張りの煙草屋の店先に、ちょこんと、置いてあります。
 この赤電話の設置者には、通話料金の一部が収益として渡される代わりに、応対サービスが
義務付けられていました。設置者が管理している鍵を差し込まないと、利用できない通信サー
ビスを、設置者が応対して、利用者に提供することです。通称「100番通話」、警察、消防、
電報、市外通話や番号案内などの通信サービスが、赤電話に鍵を差し込まないと利用できませ
んでした。他にも、時報、天気予報、電話の故障修理を受付けるサービスなどがあります。
 赤電話の構造は、受話器を上げて投入した十円玉で電気を通電させて、通話ができるように
し、受話器を下ろすと、十円玉が落ちて電気を切断して通話を終了させるという単純なもので
したので、料金体系が異なる通信サービスを提供するためには、人手の介在が必要不可欠でし
た。しかし、料金体系が異なる通信サービスを提供するために、一々、電話局員が公衆電話の
設置場所へ出向くのは不合理ですから、このような仕組みができたのです。因みに、昔の電話
機は、赤電話に限らず、電話線から電気が供給されていました。受話器を上げると通電して、
受話器を下ろすと切断されました。ですから、停電時でも電話を使用できました。
 さて、この赤電話を設置して、設置者を一手に束ねて、管理運営していたのが、今は無き「
財団法人日本公衆電話会」でした。日本公衆電話会は、赤電話を含む全ての公衆電話を管理
運営していましたが、そのために、独自の通信網を敷設して保有(正確には借用)していました。
今でも災害時に公衆電話だけは繋がると言う現象が起こるのはこのためのです。
 この日本公衆電話会は、毎年、赤電話の普及と応対サービスの向上を目指して、全国規模で、
赤電話の応対サービスコンテストを開催していました。希望する赤電話の設置者を集めて、問
答形式で、応対サービスに対する問題を出題して、応対サービスの優劣を競わせました。各県
で予選会が行われ、優秀者による地区予選を勝ち抜いた者だけが、東京で開催される決勝大会
に招待されました。
 日本公衆電話会は、毎年、私が所属していた大学の演劇研究会に、出題者として出演を依頼
して来ていました。予め、問答形式による出題の台本と、出場者毎に割り振られた出題シナリ
オが用意されており、数回の打ち合わせを経て、本番に臨むという段取りでした。我々の演劇
研究会には、部長は居らず、窓口になっている最年長の文学部の大学院生のところへ、出演依
頼の連絡が入ると、その時、特に予定の無いものが集まって対応するという、如何にも学生ら
しい暢気なアルバイトでした。しかし、舞台度胸をつけるためと称して、一年生は、全員強制
的に出演させられました。
 暢気なアルバイトとはいえ、倶楽部にとっては、重要な資金源ですから、粗相が無いように
入念に練習をします。出題は、主に「100番通話」から出題されるので、十種類程度です。
出題者で問題が分からないように、役者には複数の出題台本を覚えてもらい稽古をします。台
本は、想定問答集の様な設えになっていますが、出場者が、台本通りの回答をする筈も無く、
役者には臨機応変な対応を要求されるので、実は、結構難易度の高い芝居を要求されます。先
輩の部員は、稽古中、台本に無い意地悪な回答をして、一年生を困らせますが、これは、普段
の芝居や稽古でもよくある事で、本番でも役に立ちます。
                            
 応対サービスコンテストは、恒例で、品川の某有名ホテルで開催されました。当日、出場者
は、午前中にホテルにチェックインして、出番を待ちます。我々は、午前中の決められた時間
に集合して、ホテルへ出向き、日本公衆電話会の担当者に挨拶をして、楽屋に指定されている
ホテルの一室で待機します。実は、出場者と我々出題者の楽屋は同じ部屋で、呉越同舟宜しく
同じ船の中で揺られる事になっています。
 赤電話の応対コンテストですから、煙草屋のおばさんばかりが集まるのかと思うと、さにあ
らず、見目麗しきお嬢様方が、めかし込んで集合してきます。煙草屋さんの○○小町美人コン
テスト会場といった景色になります。皆さん、緊張していますが、豪華賞品を獲得しようとや
る気満々です。中には、ちゃっかりしたお嬢様も居て、「何が出題されるが教えて下さる。」
などと声を掛けられることも、しばしばあります。
 本番前に、進行の段取り合わせを兼ねたリハーサルが行われます。出演者は、この時初めて、
コンテスト会場の舞台に上がることになります。初めて参加する一年生部員には、この時まで、
会場がとても広く、広い会場の隅々にまで、観客席が並べられていることを、知らされていま
せん。当時の郵政省のお役人、日本電信電話公社と日本公衆電話会の幹部、各地の日本公衆電話会支局の職員、招待客と出場者の家族など、総勢1,000人を超える観客で、会場は埋め
尽くされます。度胸試したる所以です。リハーサル中、一年生部員の声は上ずり、足はヨタヨ
タしますが、ご安心ください。この時のために、一年生部員には、警察や消防など、声が上ず
っても不自然にならない台本が渡されています。
 テレビ局の美人アナウンサーが登場して、プログラムの説明が終わると、上手から出場者が
入場して、煙草屋を模した赤電話が設置された簡単な舞台装置へ腰をかけ、出題者が上手から
登場すると、コンテストが始まります。コンテストも半ば頃になると、声を上ずらせ、ヨタヨ
タと歩いていた一年生部員の肝も据わり、中には、台本に無いアドリブをかます者も現れます。
出場者への出題が終了すると、審査員が別室へ退席して休憩になります。休憩の間、我々は、
「赤電話の悪い応対見本」と称する寸劇を披露すことになっています。台本と演出は我々に任
されていましたから、ここが、腕の見せ所です。面白い芝居をすると、1,000人以上の客
席がドッと沸く、快感の一時です。
 快感の一時が終了すると、我々の役目は終了です。報酬を受取ったら解散なのですが、決ま
って、コンテストの後に催されているレセプションへ招待されます。お堅いお役人さんばかり
のレセプション会場では、能天気な学生役者はホスト役として重宝なのかもしれません。レセ
プション会場には、髷を結って綺麗な着物を着た御姉様方も呼ばれていて、出場者の小町娘と
相俟って、誠に華やかです。舞台衣装を兼ねた薄汚れた私服を着ている我々は、誠に場違いな
のですが、舞踏会のビエロ役と割り切って、豪華な食事に在り付きます。宴もたけなわとなり、
御酒を召した小町娘たちの頬がほんのり色づき、ビエロの空腹も満たされた頃、我々はそっと
退散します。これも失われた風景の一つです。

2012年8月2日木曜日

宵越しの金は持たねえ


  ここは、浅草伝法院通りです。浅草には、土地柄、舞台や芸事に纏わる店が、数多くあります。
私も学生時代に、よく通ったものです。もっとも、私が通っていたのは、裏通りの安い古着屋で、
資金の乏しい学生演劇部員では、表通りのお店の商品には手が届きせんでした。浅草の町には、
江戸情緒が上手に残されていて、仲見世通りには、江戸から続く店も沢山あり、当時と変わらない
物を売っています。写真に写っている店の鎧戸に描かれている浮世絵も、江戸を代表する文物
(ぶんぶつ)の一つです。浮世絵は西洋の印象派の画家達にも大きな影響を与えましたが、当初は、意外にも、陶磁器や漆器の包装紙として、西洋に渡りました。
  浮世とは、古くは「憂き世」と書いて、「辛く苦しいこの世」という意味でしたが、浄土宗や
浄土真宗などの鎌倉仏教によって、人々の間に、仏教の世界観が浸透すると、「来世」に対する
「現世」という意味に転ずるようになりました。仏教では、魂の精神世界である来世こそが、
真実の世界であり、現世は、肉体に宿った魂が精神修養をするための、かりそめの世界である
としています。憂き世は、「はかなきこの世」を意味するようになり、浮世(ふせい)という字を充てる
ようになりました。
  江戸時代になると、度重なる災害によって人々の心の中に、深く厭世観が広がるようになります。18世紀の日本は、数年於きに、地震や洪水などの天災や、大火などの人災に見舞われました。富士山や浅間山の噴火の影響もあって、平均気温は今より5度も低かったようで、冷害や飢饉が毎年のように繰り返され、食糧不足により、大規模な一揆や打ち壊しも、頻発しました。
    しかし一方で、江戸の人々は、「どうせ、はかなきこの世なら、楽しく笑って過ごそう。」とします。このような享楽的な処世観は、江戸気質(かたぎ)という形で根付き、粋やいなせといった価値観を生み出します。人々は、歌舞伎や浄瑠璃や落語といった芸能、絵草子や浮世絵や瓦版といった出版物を創り出して流行らせます。江戸気質は、浮世に「享楽的ではかなきこの世」という意味を持たせて、それを、浮世絵で切り取って見せました。

  当時最大の娯楽は、色事でしたから、浮世絵の多くは、美人画や春画でした。江戸の若者は、
花魁の美人画を買って、仕事で稼いだ金を握って、吉原の遊郭へ足繁く通っていました。若者達は、「宵越しの金は持たねえ」と嘯(うそぶ)いて、我こそは、江戸気質の体現者であると吹聴しました。しかし、彼らは、自棄(やけ)になっていた訳ではありません。
    江戸幕府は、綱紀粛正と称して、倹約令を発布して奢侈禁止を徹底し、芝居小屋を江戸郊外の浅草へ移転して、寄席を閉鎖するなど、町人に遊興を止めさせるために、厳しく風俗を取締りました。彼らの行動は、このような幕府の粛清に対するささやかな抵抗なのです。「ふざけんな倹約なんかするもんか。芝居見物も廓通いも止めねえ。」という思いを、「宵越しの金は持たねえ」と表現したのだと思います。
  芝居小屋が移転された浅草は、その後、娯楽の中心地となり、現在に至ります。ですから、浅草には、今でも、粋でいなせな江戸気質が息衝いているのです。