2012年9月28日金曜日

ノアの方舟 5

  5.「ノアの方舟(第五章から十章:但し、「ネピリム」の物語を除く)」の物語は、大洪水について述べています。ノアは、アダムから数えて十代目、アダムが生まれてから、1,056年後に生まれています。アダムは、930歳まで生きたので、ノアが生まれる126年前に亡くなっていますが、ノアの父、レメクの代までは生きていました。つまり、神は、アダムが生きていたメレクの代までは、アダムの犯した罪を許しませんでしたが、アダムが死んで神に召されたことによって、その罪は許され、地ののろいは解かれることになったのです。ノアの誕生はその象徴です。ですから、レメクは、ノアが生まれた時に、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの(第五章二九節)」と言ったのです。
 創世記には、レメクという名の人物が、もう一人登場しています。妻たちに「レメクのための復讐は七十七倍(第四章二四節)」と言ったカイン家系七代目の子孫レメクです。この二人には共通点があります。セツの子孫であるレメクは、のろわれた土を耕す最後の者となり、彼の子孫(ノア家系)は、骨折り働くことなく土を耕す者となりました。カイン家系の子孫であるレメクは、カインの子孫であるが故に迫害された歴史に終止符を打ち、彼の子孫を、土を耕さない者の祖としました。アダムの子孫は、レメクの名によって、呪縛から解き放たれたのです。
 セツとカインの子孫には、もう一つ、共通の名前があります。エノクです。セツ家系七代目の子孫エノクは、メトセラを生んだ後、300年、神とともに歩み、神に取られて居なくなってしまいます。神は、エノクを、何処へ遣ったのでしょう。エノクが居なくなるのは、アダムの死から、57年後のことです。アダムの死は、地ののろいが解かれる事の象徴であり、それはすなわち、アベルの恨みと憎しみが治まり、地獄から開放された事を意味します。神は、アベルの呪縛から解き放たれて、町を建てたカインに、セツの子孫エノクを子として遣わして、カインが建てた町に、神とともに歩んだエノクの名を付け、エノクによって、カイン家系を安堵したのです。
 これらの話には、不思議な数字の符合があります。カインのための七倍の復讐、カインの子となったエノクは、セツ家系七代目の子孫。カイン家系七代目の子孫レメクための復讐は、カインの七倍に七を重ねた七十七倍。セツ家系七代目のレメクがなくなったのは、七十七倍に七を重ねた777歳。

 さて、神は、神の子アダムの罪のためにのろわれた地を清めるために、大洪水を起して、創造した人を地のおもてからぬぐい去ることにします。この時、アダムの死後に、セツ家系に生まれたノアに課せられた使命は、巨大な箱舟を造って、神の前に恵みを得たノアとその妻と、三人の子供と夫々の妻、清き獣と清くない獣、空の鳥と地に這う全てのものを、造った箱舟に入れて、洪水の間、その命を保つことです。
 神の怒りは激しく、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつもわるいことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう』(第六章五節から七節)」と言い、また、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上で道を乱したからである。そこで神はノアに言われた。『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう』(第六章十一節から十三節)」と言いました。
 しかし、神は誰を滅ぼそうとしたのでしょう。ノア以前のアダムの子孫は、皆、ノアが六百歳の時に起きる洪水の前までに死に絶えてしまいます。ノアとその子と妻達は、方舟に入って生き延びますから、この洪水でなくなるユダヤの民はいません。大洪水物語の本編は、「ネピリム」の物語の後から始まり、「バベルの塔」の物語の前で終わります。ネピリムは、アトランティス十王家の祖たちを示し、バベルの塔は、アトランティス滅亡を示していますから、大洪水物語は、アトランティスを中心とするギリシャ世界の崩壊と、ユダヤの民救済の物語です。
 神はノアに、「箱舟の長さは、三百キュピト、幅は五十キュピト、高さは三十キュピトとし、箱舟に屋根を造り、上へ一キュピトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい(第六章十五節)」と指示を出しますが、この指示は、真に、的確です。縦:横:高さの比が、30:5:3というのは、現代の大型輸送船を建造するための理想的な比率と、ほぼ等しい比率だからです。4万トン程度の排水量があり、神の使命を充分に果たせると言えます。余談ですが、長い間、雨が降る続いたことで、気温は、急速に下がった筈ですから、箱舟の中の動物達の殆どは、冬眠状態になったと思われますので、世話はさほど大変では無かったことでしょう。
 ノアは、預言者です。神はノアに言葉を預け、ノアは預かった言葉の通りに行動します。神がノアに預ける言葉は、ノア(預言者)に示す道であり、人々に対する啓示であり、未来に起こることへの予言です。ですから、大洪水物語にもこれらの要素が含まれている筈です。まず、数字ですが、物語には、回帰数が多く使われています。回帰数とは、例えば、1=一日、4=四季=1年、7=一週間、365=1年といった数字の事です。先にアダムの家系での回帰数7の符合について述べました。もう一つは、意味数で、例えば、太陰暦であったユダヤ暦では、1=新月=礼拝の日、2=夫婦(つがい)、15=満月といった数字の事です。では、これらの数字を基に、大洪水物語の経緯を見ていきましょう。
 神は、「あなたと家族とはみな箱舟に入りなさい。-中略-七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を地のおもてからぬぐい去ります(第七章一節から四節)」と言います。神が言葉を預ける日は、安息日ではあり得ません。従って、洪水が起こる7日後も安息日ではありません。神は、ノアが仕事をすることが出来る日(安息日でない日)を選んで洪水を起こます。四十日は、4=1年の10倍の40年、それに40夜を重ねますから随分と長い間ということを表しています。「それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。水はしだいに減って、10月になり、十月一日に山々の頂が現れた(第八章三節から五節)」。150日は、5回の満月が経過する日数であり、五ヶ月を意味します。ユダヤ暦では、一月は29日であったり、30日であったりするので、15もしくは、30の倍数を1月の回帰数としています。洪水が始まった二月十七日の五ヵ月後の七月十七日に、箱舟はアララテの山に留まります。水は、洪水発生の190日後(40日プラス150日)のユダヤ暦9月1日の礼拝の日に減り始め、次の月、十月一日の礼拝の日に山々の頂が現れます。
 40日後、ノアは、箱舟からからすとはとを放ちます。からすは戻ってきませんが、はとは、足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟に戻ってきます。七日後、再びはとを放つと、オリーブの若葉を銜えて戻ってきます。さらに七日後、三度はとを放つと、はとは戻ってきませんでした。からすは悪魔の象徴であり、はとは守護天使の象徴です。神は予めノアに、箱舟に清くない獣(からす=悪魔)を乗せるように命じてます。しかし、神は、ノアが箱舟から出た時、彼と共にいたすべての生き物とも契約を交わすことになっていました(第六章十八節)から、からすは箱舟を出る前に放してしまわなければなりませんでした。はとに姿を変え、神からノアとその家族を守る使命を与えられていた守護天使は、初めて放たれた時、安全の確認が出来ないため箱舟に戻り、再び放たれた時には、地に、エデンの園と同じ様に、食べるの良い木であるオリブの木が生えている証を持ち帰えり、人に良い知らせをもたらす守護天子の役目を果たしました。三度放たれた時は、安全である地を見て、役目が終わったことを悟り、箱舟には戻りませんでした。ノアは、守護天使であるはとが戻らない様子を見て安堵します。
 「六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもてはかわいていた。二月二十七日になって、地は全くかわいた(第八章十三節から十四節)」。一月一日、ユダヤの民にとって一年で最も重要な礼拝の日に、地の上の水はかれます。二月二十七日は、洪水が始まった二月十七日から数えて、一年と10日目に当たります。ユダヤ暦の1年は355日なので、太陽暦の一年(365日)目という回帰数に当たります。ユダヤには、過ぎ越し祭という重要な行事があり、それは、神が、エジプトの民が、ユダヤの民の長子を殺した報復として、エジプトの長子を皆殺しにする時に、戸口に羊の血の印のあるユダヤの民を過ぎ越したことに由来すると云われていますが、実は、過ぎ越しは、ノアの方舟が、洪水という神の怒りを過ぎ越したことが起源であり、この物語が後の人々への過ぎ越しの啓示となっているのです。
 ここで、洪水に纏わる回帰数、神の預言から洪水が起こるまでの7日間、雨が降り続く四十日四十夜、水が減る百五十日、からすとはとが放たれる四十日後、再びはとが放たれる七日後、三度はとが放たれる七日後を全て加算すると、291日になりますが、この数値には、回帰数4が含まれていることで、291年と読みかえることができます。ユダヤの民の祖といわれるアハブラハムが生まれるのは、洪水の二年後にセムの子アルバクサデが生まれた290年後で、洪水後、291年目です。これは、アブラハム誕生の予言です。
 ノアは、二月二十七日に、神に促がされて箱舟を出ました。「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた(第八章二十節)」。これは、ノアが、「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった(第六章九章)」であったことの証で、ノアが、のろわれた地の産物を供え物にしたカインとは対象的に、正しい祭り事をしたことを示しています。神は、燔祭の香ばしいかおりをかいで、「わたしはもはや二度と人ゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない(第八章二二節)」と決意します。人は、幼い時=未熟=無知ゆえに、悪い事を心に思い図る者だから、今後は、アダムのように、無知ゆえに人が犯した罪を理由に地をのろうことはしない。のろわれた地を清めるために、洪水を起すことはしないということです。
 神は、使命を果たしたノアとその子らを祝福して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない(第九章一節から三節)」と言います。この言葉は、先に、「罪と罰は、因果応報であり、全ては人(カイン)の行いに起因している。」と述べたことと同様に、贖罪と免罰、善行と祝福も因果応報であることを示しています。アダムとノア以前の子孫は、「あなたは一生、苦しんで食物を取る。-中略-あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る(第三章十七節から十九章)」という神の罰を受け続け全うすることによって、罪を贖ったので、神は、洪水を起して、のろわれた地を清める事で、ノア以降の子孫に、罰を与えるのをやめます。また、ノアとその家族が、箱舟を造って、洪水の間、動物達の命を保つという善行を行ったので、すべて生きて動くものを食物として与えるという祝福をします。これによって、無知によってアダムが犯した罪に端を発する因果律の時代が完結して、新しい時代が到来したことを示しています。血は、アベルの恨みと憎しみの象徴ですから、血のままで食べるなとは、動物に対して、恨みや憎しみを抱かせるような行いをせず、差し出した命に感謝して食べるようにとの戒め(啓示)です。神は、さらに、「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう(第九章五節)」と言います。これは予言です。後に、モーセが世に現れようとした時に、エジプト人は、畏れてユダヤの長子を皆殺しにしますが、神はこれに報復して、エジプトの長子を皆殺しにします。
 新しい時代が到来する時、神が人と新しい契約を取り交わすということが、ユダヤの約束事です。神は、「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることなく、また
地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう(第九章十一節)」と言い、そのしるしとして、雲の中に虹を置きます。虹は、止まない雨がないことの象徴であり、契約の証です。
 この物語は、神がノアに与えた預言によって締めくくられ、最後に、ノアの子、セム、ハム、ヤペテとその子孫が誰で、何処に住んでどの氏族の始祖になったかが書かれて、終わっています。神は、ノアの口を借りて、「彼は言った。『カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える』。また言った、『セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ、神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ』(第九章二五章から二七章)」と予言しました。
 ノアは、この予言をする前に、酒に酔って天幕の中で裸になっています。裸は、善悪を知る木の実を食べる前のアダムとエバが、「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった(第二章二五節)」とあるように、無知を象徴しています。セムとヤペテが、父の裸を見ずに、着物で裸を覆うのは、善悪を知る木の実を食べた後にアダムとエバが、イチジクの葉で体を隠すこと、すなわち、無知に対しての有知を象徴しています。ハムが父の裸を見て、何もせずに兄弟に告げる行為は、ハムが人の無知を放置したことを意味しています。「カナンはのろわれよ」とありますが、神は人をのろいませんから、カナンは、カナンの地のことを示していて、カナンの父(始祖)であるハムが、人々の無知を放置したために、後に、カナンの地が大いに乱れることを示しています。「彼」とは、カナンに住む人々のことで、「しもべは」は、神のしもべである預言者のことで、カナンの地は預言者に統治されて、人々はその家族と同朋に仕えることなることを示しています。「セムの神」とは、セムの子孫から、次の時代を指導する「主はほむべきかな」主がほむべき預言者、アブラハムが誕生する予言です。カナンの地は、アブラハムに統治されることになります。「神」はアブラハムの事で、「ヤペテ」はヤペテの子孫が住んだ海岸の地の事で、その地が、アブラハムが統治した国々(セムの天幕)に加えられて、大いに栄えたこと、カナンの人々がその統治を手助けすることを示しています。
 観て来た様に、創世記は、荒唐無稽な作り話ではありません。聖書は、象徴的な事物や、矮小化された比喩によって、預言者(人)に道を示し、人々に啓示を与え、未来に起こることを予言しているのです。エデンの東ノドの地は、罪を犯したカインが、あてもなく希望もなく流離った地です。しかし、ノドはのろわれた地ではありません。アダムが亡くなって、アベルの恨みと憎しみが治まると、神に遣わされたエノクの名を町付けて繁栄していきます。ユダヤの神は、怒れる裁きの神であると思っている人も多いようですが、罪と罰、贖罪と免罰、善行と祝福の因果律という法の守護者であり、人との契約を忠実に履行する庇護者であるというのが、本当の姿であると私は信じています。
 ちなみに、950歳まで生きたノアは、アブラハムが誕生した時には、まだ、生きていたことになっています。アダムの時代は、贖罪の時代であり、犯した罪に起因する罰を受け続けて、許されて神に召されることで新たな時代の礎と成りました。ノアの時代は、祝福の時代で、贖罪によって清められた地に、祝福されらされた人々が繁栄していきます。それは、ノア以降の時代、アブラハムの時代以降にも受け継がれていきます。ですから、ノアはアブラハムが誕生するまで生きている必要があったのです。

カインとアベル 3,4

 3.「カインとアベル(第四章)」の物語は、善と悪、罪と罰と贖罪について述べています。カインは、神への供え物を神が顧ない事に憤ります。その怒りは嫉妬と成って、弟のアベルへ向けられ、カインは、遂に、アベルを殺してしまいます。ここで、問題なのは、カインが土の産物を供え物にした事です。土は、アダムの罪によってのろわれています。のろわれた土の産物を供えることは、神をのろうことにならないでしょうか。神は、カインの供え物を顧みずに、こう言います。「もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口で待ち伏せています。それは、あなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。(第四章七節)」と。
 ここで言う罪とは、悪魔の事です。カインは、自分の行いが善か悪かを知りません。悪魔は、その無知に付け込んで、カインに罪を犯させようとしますが、カインはその誘惑を、有知をもって退けなければならないと、神は言うのです。しかし、カインは悪魔の誘惑に負け、アベルを殺してしまいます。人(カイン)は、エバやアダム(土及び人間)のように、無知であるが故に悪魔に唆されて、再び罪を犯してしまうのです。罪を犯したカインは、アベルの居所を尋ねる神に、知らないと嘘を吐きます。もはや、悪魔の言うが儘です。

 蛇=悪(魔)とエバとアダムの犯した罪により、土は、最ものろわれた霊的な存在である悪魔が這い回る場所にされることによって、霊的にのろわれ、いばらとあざみを生じる痩せた土地にされることによって、この世的にのろわれることになりました。地を這う悪魔は、なぜ、カインを唆してアベルを殺させたのでしょうか。悪魔は霊的な存在ですから、悪魔が活動を続けるために必要なエネルギーもまた、霊的なものの筈です。すなわち、怒りや恨みや憎しみなどの負のエネルギーが、悪魔の原動力です。人を恨んで死んだ人の魂は、死後も負のエネルギーを出し続ける筈ですから、悪魔は、この魂を虜にして、負のエネルギーを奪い、活動を続けようとするのです。ですから、カインを唆してアベルを殺させ、死んだアベルの魂を虜にしたのです。「この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けた(第四章十一節)」とは、この事を示しています。哀れアベルは、カインに殺され、恨みと憎しみに苛まれながら、悪魔の虜にされて地獄に居続けることになったのです。
 これは、教訓です。人は、善悪を知る父と母から生まれたからといって、直ちに、善悪を知る者にはなりません。無知は、罪ではありませんが、時として、人に悪しき行いをさせることがあります。この時、神の言葉に耳を傾けて、悪魔の誘惑を退けることが出来るかどうかが、試されているのです。
 カインは、犯した罪のために罰を受けることになりますが、全ては、カインの行い(アベルを殺した事)によって惹き起こされます。アベルの魂は、この土地(悪魔)に留まり(捕われて)カインをのろい続けますから、カインは、この土地を離れざるを得ません。しかも、土地(アベルの魂)は、カインを恨んで、彼に収穫物を与えませんから、もはや、土を耕す者には戻れず、放浪者として生きて行くほかなくなります。神は、カインにその事実を告げますが、関与はしていません。つまり、罪と罰は、因果応報であり、全ては人(カイン)の行いに起因していることを示しています。
 カインは、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならなければなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう(第四章十三節から十四節)」と神に言います。カインは、与えられた罰の重さから、犯した罪の深さを知ることになりますが、罰が、自分の行いに起因していることに気づいてはいませんし、罰を受け続ける事(応報)こそが、犯した罪を購う(贖罪)唯一の道である事にも気が付いていません。神は、道を示す代わりに、カインにしるしをつけて、「だれでもカインを殺すものは七倍の復讐をうけるでしょう(第四章十五節)」と言って、カインへの報復を禁じます。恨みや憎しみによって、罪人に復讐したり報復することは、悪魔を利するだけである事を知っている神は、人にそれらを禁じるのです。
 人は、神の試練を乗り越えて、自らの力で、善悪を知る者とならなければなりませんが、与えられる罰や祝福が、人の行いに起因しており、罰を受け続けることでしか罪を購う(贖罪)ことができないことも知らねばなりません。ですから神は、カインに道を示さず、生き続ける事(罰を受け続ける事)で罪を購い、善悪を知る者となることを望んだのだと思います。
 その後、カインは、エデンの東、ノド(流離(さすら)い)の地に住んだといわれています。カインは、町を建て、自分の子の名であるエノクと名付けます。アダムから数えて七代目レメクの子供達は、それぞれ、「天幕に住む家畜を飼う者の先祖」「琴や笛を執るすべての者の先祖」「青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者」になったとされています。レメクは妻達に、「わたしは受ける傷のために人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍(第四章二三節から二四節)」と言います。
 カインが、自ら神の前を去って、流離いの地(ノド)に住んだということは、自分の宿命を受け容れて生き続けることを選択したからです。妻をめとり、子を生したカインが建設した町に、子供の名を付けたのは、自分のようにのろわれることが無いように願ったためと思われます。先に述べたように、カインに与えられた罰は、自らの行いに起因しており、神が彼をのろって罰を与えた訳ではありません。カインに罰を与えない神が、その子孫に罰を与える筈はありません。従って、カインの子孫達が繁栄していくことは、神の意志に背く事にはなりません。しかし、カインの子孫達は、カインの子孫であるが故に、人々から迫害を受けたに違いありません。神は、カインに復讐することは禁じましたが、その子孫を迫害することは禁じていないからです。カイン家系の中興の祖であったであろうレメクが、妻達に言いたかった事は、「自分はカインのように、怒りや嫉妬に駆られて人を殺したことは無く、迫害から身を守るためにやむを得ず人を殺したこと。その行い(罪)によって、カインと同様に重い罰受ける覚悟があり、その罪の深さと罰の重さは、カインの十倍(十人以上の人を殺した)以上だから、神は、わたし(レメク)を殺す者に七十七倍の復讐をするだろう。」ということです。おそらくレメクは、故無き迫害から、家族や子孫を守るために、その罪と罰を一身に背負うために、一人で迫害者に立ち向かったのだと思います。
 最後に、神がアベルの代わりにアダムに授けた男の子、セツのことが書かれています。そのセツにも男の子が生まれ、エノスと名付けられます。「その時、人々は主の名を呼び始めた。(第四章二六節)」とあるのは、神の子アダムの家系が繁栄することによって、神が人をのろってはいないことを知って、神に感謝するようになった事を示しています。
 この物語は、アダムの3人の息子の生涯を通じて、典型的な人の生き様が描かれています。カインは、悪魔に唆されて人を殺し、その罪によって受けた罰を贖うために、ノドの地を流離い生き続け、土を耕さない者の始祖を残します。アベルは、悪魔に唆されたカインに殺され、その恨みと憎しみのために悪魔の虜になり、恨みと憎しみに苛まれながら、地獄に居続けます。セツは、アダムの子としての生涯を全うして、土を耕す者の子孫を繁栄させます。
 
  4.さて、創世記には、突然、物語の脈絡とは無関係な短い物語が挿入されています。「バベルの塔(第十一章一節から九節)」の物語がそれです。創世記によれば、洪水の後の世界は、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテの子孫が、その氏族と言語にしたがって、その国々に住んだことになっていますから、「全地は同じ発音、同じ言葉であった(第十一章一節)」ことはありません。だから、この物語が、洪水前に起きた出来事だというつもりもありません。
 先に述べたように、聖書や神話などは、歴史的事実を象徴的な事物や、矮小化された比喩によって表現していると、私は考えています。聖書は、ユダヤ・キリスト教の世界観と価値観に基づいて書かれ編纂されています。しかし、世界に存在する宗教的世界観と価値観は、ユダヤ・キリスト教だけではありません。その対極あるものに、ギリシャ・ローマ的世界観と価値観があります。大洪水以前のギリシャ世界は、プラトンが書き残した書物に依れば、太平洋に浮かぶ巨大な火山島と、リビアに至る北アフリカとイタリア東部に至るヨーロッパを統治していたアトランティスと、ギリシャとその周辺を統治していたアテナイとに広がり、当時の世界では、全地と言えるほど広大な地域に広がっていました。当時のギリシャ都市は、小高い丘の上に築かれたアクロポリスという神殿を備えた王の居城を中心に、アクロポリスの丘を取り囲むように町が広がっていました。
 「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのをのがれよう(第十一章四節)」とあるのは、ギリシャ人が、アクロポリス(塔)を中心に、都市を建設して、その中心にある神殿(頂)を、天にあるギリシャの神々に捧げて、神殿に人々を集めて神々の名の下に祭事を行うこと(名を上げ)により、人心を纏めて、広大な領地を統治していった事を示しています。
 プラトンに依れば、アトランティスの最盛期、巨大な火山島を支配していたアトラス王は、アクアポリスに隣接する大平原に、一万台の戦車と戦車用の馬十二万頭と騎手十二万人。戦車の無い馬十二万頭とそれに騎乗する兵士六万人と御者六万人、重装歩兵十二万人、弓兵十二万人、投石兵十二万人、軽装歩兵十八万人、投槍兵十八万人、千二百艘の軍船のための二十四万人の水夫が招集できるようにしていたとあります。アトランティスには、アトラス王家の他に、九つの王家があり、リビアに至る北アフリカとイタリア東部に至るヨーロッパを、分割統治していました。アトランティスは、その強大な軍事力を背景に、中央アメリカから南米大陸、アフリカ西部から南部、さらには、当時温暖な土地であった南極大陸にまで植民地支配を拡大していきました。ユダヤの神が、この様子を見て、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。(第十一章六節)」と言ったのは、この事を示しています。
 しかし、アトランティスの中心地であった巨大な火山島は、異常な大地震と洪水によって、一夜にして水没してしまったと言われています。「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう(第十一章七節)」とは、この事を示しています。バベルには、混乱するいうと意味がありますから、ここでいうバベルは、町の名前ではなく、火山島水没後の混乱した状態を示していると考えられます。シナルの地とあるのは、シナルの地に、ハムの子孫のニムロデが統治したバベルという名前の町があったので、「バベルの塔」の物語をここに挿入するための辻褄合わせです。れんがとアスファルトは、高度な文明を示す比喩と思われます。
 創世記第六章一節から四節にも、「バベルの塔」の物語と同様、突然挿入された、物語の脈絡とは無関係と思われる「ネピリム」の物語があります。ギリシャ神話には、人と神とが交わって、生命が誕生する話が沢山出てきます。巨人であったかどうかは、知る由もありませんが、オリンピアに在ったゼウス坐像が、高さ12メートルあったことからも、古代ギリシャの人々は、神は巨大な生命体だと認識していました。ですから、人と神とが交わって誕生したネピリムも、人と比べて遥かに大きな生命体であったと思われます。
 アトランティスの建国神話に依れば、海神ポセイドンと火山島に住む人の娘クレイトが結ばれ、双子五組十人の子供が生まれて、アトランティス十王家の祖となったといわれています。「彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった(第六章四節)」とあるのは、昔(大洪水以前)、ネピリムは、アトランティス十王家の祖のような有名な勇士であったという事を示しています。

2012年9月23日日曜日

エデンの東1 1,2



創世記によれば、アダムとエバは、善悪を知る木の実を食べたために、神からエデンの園を追われてたといわれています。私は、聖書や神話などは、作り話ではないと考えています。シュリーマンがトロイを発見したからと言うわけではなく、人々が長い年月語り継いで来た物語には、語り継ぐだけの価値と意味が込められていると思うからです。20世紀初頭辺りから、実証主義は、歴史などの社会学分野にも広がり、経験的な事実に基づいていないとして、聖書や神話などの書物を、客観的な史料とは成り得ないとして、史料から排除してしまいました。しかし一方で、科学的に、客観的に検証し得ない事象を全て、歴史的事実から除外してしまうと、有史以前の人類の歴史は、荒唐無稽な作り話によって構成されることになってしまいます。ですから、私は、聖書や神話などは、作り話ではないという立場に立ち、その逸話は、経験的な事実その物ではないが、歴史的事実を象徴的な事物や、矮小化された比喩によって表現している考えているのです。
 例えば、ノアの洪水伝説と同様な洪水伝説は、世界各地に存在しますが、実証主義によれば、これらの伝説は、客観的な史料とは成り得ないので、洪水があったという事実も否定されてしまいます。しかし、世界各地で、同じ様な荒唐無稽な物語が創作され、長い間、伝承されて来たというのは、少し、無理があります。ノアという人がいて、大きな方舟を造って、自分の家族と動物達を洪水から救ったという事実があったかどうかは、ともかく、世界規模の洪水は、在ったと考えるのが自然だと思います。
 グラハム・ハンコックが著した「神々の指紋」によれば、16世紀に書かれた地図に、南極大陸の正確な海岸線が描かれています。また、同年代の地図には、ベルギーまで氷に覆われているヨーロッパが描かれています。これらの地図は、航海や測量によって緯度経度を算出して描いたものではなく、古くから伝承されて来た地図を元に、描かれています。「神々の指紋」の論点の一つは、この伝承された地図が、何時の時代に作成されたのかということです。人類は、最古の文明であるエジプト文明から、18世紀頃までは、高度な航海術や経度測量技術は持ち得ていません。ですから、更に時代を遡った大洪水以前に、高度な科学技術を持つ文明があって、伝承されて来た地図は、その文明が作成した地図だというのが、グラハム・ハンコックの見解です。
 グラハム・ハンコックは、今から一万年から一万五千年前に、大規模な地殻変動によって、南極大陸やアラスカ、シベリアが、今の極圏内に移動したために、大洪水などの天変地異が発生して、南極大陸やアラスカ、シベリアは、氷に覆われ、高度な科学技術を持つ文明は、滅んでしまったと主張しています。現在では、各地の同時代の地層から、マンモスやトクソドンなどの大型哺乳類の屍骸や骨が、大量に発見されたことなどから、地球規模の大災害が発生したことが、確認されています。だからといって、聖書や神話などの書物に書かれている事が、全て、歴史的な事実であると言うつもりもありません。また、宗教裁判や魔女狩りが復活しても困ります。
 さて、話を創世記に戻すと、創世記は、大きく3つの物語、「天地創造と原初の人類」「イスラエルの太祖たち」「ヨセフ物語」に分けられます。しかし、私は、創世記は、大洪水以前と以後に分けられるべきだと考えています。大洪水以前の創世記には、「天地創造」「アダムとエバ」「失楽園」「カインとアベル」「ノアの方舟」「バベルの塔」の6つの物語があります。「バベルの塔」の物語は、大洪水以降の物語だとするのが定説ですが、私は、大洪水以前の話だと考えています。以下は、大洪水以前の創世記に対する私の勝手な解釈です。
 
  1.「天地創造(第一章)」の物語は、宇宙及び太陽系と地球の形成と人類の誕生について述べています。

  2.「アダムとエバ(第二章)」と「失楽園(第三章)」の物語は、神の国と地上及び、人と動植物及び、善と悪の関係について述べています。エデンの園は、神が歩き回っていることからも神の国、すなわち、あの世であります。あの世は、魂の精神世界ですから、ここに置かれた人は、霊的存在であったと考えられます。善悪を知る木は、受肉化、肉体を持ってこの世に生きる人間を象徴しており、命の木は、精霊化、人間の霊的存在である精霊を象徴していると考えられます。エデンの園に、人の手助けのために造られた獣や鳥も、同様に、霊的な存在です。神は、人のあばら骨から女を造りますが、これは、人= 男性すなわち地球、女すなわち月を象徴した話だと考えられます。現在、月は原始地球が、火星ほどの大きさの天体と激突した結果、形成されたとされています。つまり、月は地球の一部分から形成された訳です。地球の六分の一もの体積を持つ月は、衛星というよりは、二重惑星というべきで、地球と月は、誕生の経緯からも、ニつで一つの惑星を構成していると言えます。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。(第二章二四節)」とあるのは、そのことを示しています。
 蛇は、悪魔の象徴です。明けの明星といわれた大天使ルシフエルは、地上で悪の限りを尽して、やがて、天へ戻る時に、その身を龍に変身させて天へと向いましたが、神は、ルシフエルを天へ入れることを許さず、大天使ミカエルを遣わして、撃退することにしました。ルシフエルは、ミカエルによって撃たれ、地に落ちてその身は蛇となって、暫くの間は体を動かすことも出来なくなりました。
 その蛇=悪(魔)は、人(女)を唆して、人に罪(善悪を知る木の実を食べること)を犯させます。人(女)は、悪しき者ではないが、罪を犯したために罰を受けることになります。人(男)も、悪しき者ではないが、蛇に唆された人(女)に言われるがままに、罪を犯したために罰を受けることになります。人(女)に与えられた罰は、生みの苦しみを増す事、人(男)に与えられた罰は、人(男)のためにのろわれた地から、一生、苦しんで食物を取ることです。そして、神は、彼らに、皮の服を造って着せて、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。(第三章二二節」と言って、エデンの園から追い出してしまいます。この時、人(男)はその妻に、エバ(生きる者または生命)と名付けます。月の化身であるエバが、全て生きた者の母の象徴であるからです。
 あの世であるエデンの園から追い出されるということは、この世である地上に、肉体を持って(皮の服を造って着せてもらい)生まれるということです。神は、善悪を知る木の実を人が食べると、われわれのひとりのように、善悪を知るものとなり、エデンの園に居られなくなるので、人にその実を食べることを禁じていました。大天使であった悪魔は、その事を知っていて、人(女)を唆してその実を食べるように仕向けたのです。しかし、神は、悪魔に罰を与えますが、エデンの園から追い出してはいません。悪魔に、肉体を持ってこの世に生まれることを許さず、一生(未来永劫)、腹で這いあるき、ちりを食べる最ものろわれた霊的な存在であり続けさせるためです。
 さて、神は、人が善悪を知る木の実を食べるまでは、命の木の実を食べることを禁じてはいません。この事は、肉体を持って地上に生きる人は、永遠に生きることは許されず、精霊となって、あの世で暮す人には永遠に生きることが許されるということを意味します。神は、エデンの東に、ケルビム(智天使もしくは守護天使)と回る炎のつるぎ(雷)を置いて、命の木を守らせ、人を遠ざけます。

2012年8月9日木曜日

樽は世界を巡る

                   
   樽は、ここにあるワイン樽のように、酒や油などを詰める容器です。樽は、その頑丈さと
密閉性の高さから、運搬だけでなく、貯蔵にも用いられてきました。金属やプラスチックの
容器が登場するまで、樽は、運搬や貯蔵に用いられる容器の主役でした。詰める物や用途に
よって、様々な容積の樽があります。酒や油などの製品は、樽に入れられたまま、取引され
ることが多かったために、樽:バレル:barrelは、容積を表す単位としても使用されるよう
になりました。現在でも、石油は、バレル:barrel:bblという単位で取引されています。
 このバレル:barrel:bblは、ヤード・ポンド法(Imperial unit)における容積を表す単位
です。アメリカの油田で、42ガロン=約159リットルのワイン樽が使われていたために、この
容積が取引単位となりました。アメリカとイギリスで、ガロン:gallonの容量が異なる(米:
3.79リットル、英:4.55リットル)ので、先程のバレル:barrelも、米:158.99リットルに対
して、英:159.1リットルと僅かに異なります。因みに、42ガロンのワイン樽は、ティアス:
tierceと言います。
 さて、ワインは、古くは、羊の皮袋やアンフォラなどの陶器に入れられて運搬・貯蔵され
ていましたが、ローマ帝国が、ガリア人と交流(実は戦争)するようになると、ガリア人が使
っていた樽が、用いられるようになりました。一方で、ワインの製法もガリア人へ伝わり、
現在のフランスやドイツでも、ワインが製造されるようになりました。
 16世紀半ばになると、ワインは、大航海時代のヨーロッパから、戦国時代の日本へ伝えら
れました。信長や秀吉が愛飲していた事は、有名です。彼らが飲んでいたのは、ポルトガル
のワインですから、葡萄に砂糖を加えて醸造した甘味の強いポートワイン(ポルト酒とも言
う)です。樽に詰められたポートワインは、リスボンの港から船に積まれて、喜望峰を周り、
ゴアとマラッカの港を経由して、当時、ポルトガルの貿易拠点が在ったマカオに到着します。
マカオで、中国の生糸や絹織物や硝石と伴に、再び船に積み込まれたポートワインは、漸く
長崎や平戸へ到着します。
 17世紀初頭には、ポルトガルを併合したスペインやイギリスやオランダが、次々と東イン
ド会社を設立して、インドや東アジア貿易の覇権を争いました。オランダは、アンボイナ事
件で、イギリスをインドネシアからインドへ退けて、ジャカルタに拠点を置きました。一方、
スペインも、太平洋航路を開拓して、フィリピンのマニラに拠点を置いて、東アジアと交易
をしました。江戸幕府は、キリスト教を嫌って、スペイン・ポルトガルを遠ざけて、オランダ
と交易をするようになりました。この頃になると、ヨーロッパとアジア間の航路が整備され、
定期的に、輸送船団が行き交うようになりました。
 しかし、当時の航海は、海賊船やサイクロンとの遭遇や敵対国の戦艦との交戦など、危険
がいっぱいでした。ですから、輸送船団は、全長と幅の比率が4:1と長形で、吃水が浅く速度
が出せるガレオン船を採用して、大砲を装備し、武装した乗組員を乗船させて、護衛の戦艦
を引き連れていました。ガレオン船は、積載能力が高く、船長1メートル当たり、10トン程
度の積載能力を持っていました。全長100メートル近い、排水量1,000トンを超える大型商船
も存在し、大砲を装備し、武装した乗組員を乗船させて、大量の弾薬や食料や日用品を積載
してもなお、かなりの重量の積荷を運搬することができました。
 積載量(=排水量)は、質量の単位であるトン:ton:tで表わされますが、このトン:ton:t
も、樽を表す古い英語'tunne'に語源を持つ、ヤード・ポンド法の質量の単位です。ヤード・
ポンド法に於ける1トン:ton:tは、一番大きなワイン樽:タン:tunの容積である、252ガ
ロンの水の質量です。252ガロンの水の質量は、2240ポンドで、約1016.05kgです。17世紀初
頭に、オランダの輸送船団が、東インドから600,000ポンドの香辛料と交易品を持ち帰ったと
いう記録がありますが、これは水を詰めた42ガロンのワイン樽、約1,600樽分に相当します。
 樽は高価な容器ですから、当然、高価な商品が詰められます。オランダ東インド会社は、
日本との交易で、江戸初期には、ベンガルやトンキン産の生糸で、銀を手に入れていました。
江戸中期になると、羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを持込んで、銅、
樟脳、陶磁器、漆器などを手に入れていました。樽に詰められたこれらの高価な交易品や香
辛料は、ジャカルタの港から輸送船に積まれて、インドを経由して喜望峰を、周ってアムス
テルダムへ到着しました。
 十字軍の遠征が失敗に終わり、暗黒と言われた中世が終焉して、ルネサンスというローマ
懐古運動によって、開放的で自由な世界観が、イタリアからヨーロッパ全土に広がると、人
々は、イスラム世界から伝来した羅針盤を握り締め、船に帆を張り、大海原へ出航して往き
ました。
 大航海時代と呼ばれたこの時代、ヨーロッパに、ブルジョアジーといわれる新たな富裕層
が出現します。キリスト教の禁欲的な倫理観から開放されたブルジョアジーは、空の樽を巨
大なガレオン船に積んで、贅沢で珍しい文物を求めて、世界中を巡らせました。
 ヨーロッパの港に到着した船から、香辛料や高価な交易品が詰め込まれた樽が降ろされる
と、それらは、ブルジョアジーへ手渡されました。富を手にしたブルジョアジー達の限りな
い欲望は、王や軍隊を唆して、かつてのローマ帝国のように、更なる富を求めて、アフリカ
やアジアの国々を侵略して行きます。欲望に唆されたヨーロッパの国々は、侵略した植民地
の覇権を巡って互いに争い、やがて、戦乱は、世界中へと広がって行きました。



2012年8月6日月曜日

日本公衆電話会


 最近、しきりと、携帯電話会社からDMが届きます。家内の携帯電話が旧式なので、これを、
新しいものへ交換してくれと言う勧誘の知らせです。携帯電話が普及して、世の中は、随分と
便利になりましたが、一方で、姿を消してしまった物も、沢山あります。携帯電話の普及と伴
に、姿を消した物の一つに、通称赤電話と言われた公衆電話があります。赤電話は、煙草屋の
店先や郵便局などにあり、以前は随分と重宝しました。映画「三丁目の夕日」でも、昔懐かし
いタイル張りの煙草屋の店先に、ちょこんと、置いてあります。
 この赤電話の設置者には、通話料金の一部が収益として渡される代わりに、応対サービスが
義務付けられていました。設置者が管理している鍵を差し込まないと、利用できない通信サー
ビスを、設置者が応対して、利用者に提供することです。通称「100番通話」、警察、消防、
電報、市外通話や番号案内などの通信サービスが、赤電話に鍵を差し込まないと利用できませ
んでした。他にも、時報、天気予報、電話の故障修理を受付けるサービスなどがあります。
 赤電話の構造は、受話器を上げて投入した十円玉で電気を通電させて、通話ができるように
し、受話器を下ろすと、十円玉が落ちて電気を切断して通話を終了させるという単純なもので
したので、料金体系が異なる通信サービスを提供するためには、人手の介在が必要不可欠でし
た。しかし、料金体系が異なる通信サービスを提供するために、一々、電話局員が公衆電話の
設置場所へ出向くのは不合理ですから、このような仕組みができたのです。因みに、昔の電話
機は、赤電話に限らず、電話線から電気が供給されていました。受話器を上げると通電して、
受話器を下ろすと切断されました。ですから、停電時でも電話を使用できました。
 さて、この赤電話を設置して、設置者を一手に束ねて、管理運営していたのが、今は無き「
財団法人日本公衆電話会」でした。日本公衆電話会は、赤電話を含む全ての公衆電話を管理
運営していましたが、そのために、独自の通信網を敷設して保有(正確には借用)していました。
今でも災害時に公衆電話だけは繋がると言う現象が起こるのはこのためのです。
 この日本公衆電話会は、毎年、赤電話の普及と応対サービスの向上を目指して、全国規模で、
赤電話の応対サービスコンテストを開催していました。希望する赤電話の設置者を集めて、問
答形式で、応対サービスに対する問題を出題して、応対サービスの優劣を競わせました。各県
で予選会が行われ、優秀者による地区予選を勝ち抜いた者だけが、東京で開催される決勝大会
に招待されました。
 日本公衆電話会は、毎年、私が所属していた大学の演劇研究会に、出題者として出演を依頼
して来ていました。予め、問答形式による出題の台本と、出場者毎に割り振られた出題シナリ
オが用意されており、数回の打ち合わせを経て、本番に臨むという段取りでした。我々の演劇
研究会には、部長は居らず、窓口になっている最年長の文学部の大学院生のところへ、出演依
頼の連絡が入ると、その時、特に予定の無いものが集まって対応するという、如何にも学生ら
しい暢気なアルバイトでした。しかし、舞台度胸をつけるためと称して、一年生は、全員強制
的に出演させられました。
 暢気なアルバイトとはいえ、倶楽部にとっては、重要な資金源ですから、粗相が無いように
入念に練習をします。出題は、主に「100番通話」から出題されるので、十種類程度です。
出題者で問題が分からないように、役者には複数の出題台本を覚えてもらい稽古をします。台
本は、想定問答集の様な設えになっていますが、出場者が、台本通りの回答をする筈も無く、
役者には臨機応変な対応を要求されるので、実は、結構難易度の高い芝居を要求されます。先
輩の部員は、稽古中、台本に無い意地悪な回答をして、一年生を困らせますが、これは、普段
の芝居や稽古でもよくある事で、本番でも役に立ちます。
                            
 応対サービスコンテストは、恒例で、品川の某有名ホテルで開催されました。当日、出場者
は、午前中にホテルにチェックインして、出番を待ちます。我々は、午前中の決められた時間
に集合して、ホテルへ出向き、日本公衆電話会の担当者に挨拶をして、楽屋に指定されている
ホテルの一室で待機します。実は、出場者と我々出題者の楽屋は同じ部屋で、呉越同舟宜しく
同じ船の中で揺られる事になっています。
 赤電話の応対コンテストですから、煙草屋のおばさんばかりが集まるのかと思うと、さにあ
らず、見目麗しきお嬢様方が、めかし込んで集合してきます。煙草屋さんの○○小町美人コン
テスト会場といった景色になります。皆さん、緊張していますが、豪華賞品を獲得しようとや
る気満々です。中には、ちゃっかりしたお嬢様も居て、「何が出題されるが教えて下さる。」
などと声を掛けられることも、しばしばあります。
 本番前に、進行の段取り合わせを兼ねたリハーサルが行われます。出演者は、この時初めて、
コンテスト会場の舞台に上がることになります。初めて参加する一年生部員には、この時まで、
会場がとても広く、広い会場の隅々にまで、観客席が並べられていることを、知らされていま
せん。当時の郵政省のお役人、日本電信電話公社と日本公衆電話会の幹部、各地の日本公衆電話会支局の職員、招待客と出場者の家族など、総勢1,000人を超える観客で、会場は埋め
尽くされます。度胸試したる所以です。リハーサル中、一年生部員の声は上ずり、足はヨタヨ
タしますが、ご安心ください。この時のために、一年生部員には、警察や消防など、声が上ず
っても不自然にならない台本が渡されています。
 テレビ局の美人アナウンサーが登場して、プログラムの説明が終わると、上手から出場者が
入場して、煙草屋を模した赤電話が設置された簡単な舞台装置へ腰をかけ、出題者が上手から
登場すると、コンテストが始まります。コンテストも半ば頃になると、声を上ずらせ、ヨタヨ
タと歩いていた一年生部員の肝も据わり、中には、台本に無いアドリブをかます者も現れます。
出場者への出題が終了すると、審査員が別室へ退席して休憩になります。休憩の間、我々は、
「赤電話の悪い応対見本」と称する寸劇を披露すことになっています。台本と演出は我々に任
されていましたから、ここが、腕の見せ所です。面白い芝居をすると、1,000人以上の客
席がドッと沸く、快感の一時です。
 快感の一時が終了すると、我々の役目は終了です。報酬を受取ったら解散なのですが、決ま
って、コンテストの後に催されているレセプションへ招待されます。お堅いお役人さんばかり
のレセプション会場では、能天気な学生役者はホスト役として重宝なのかもしれません。レセ
プション会場には、髷を結って綺麗な着物を着た御姉様方も呼ばれていて、出場者の小町娘と
相俟って、誠に華やかです。舞台衣装を兼ねた薄汚れた私服を着ている我々は、誠に場違いな
のですが、舞踏会のビエロ役と割り切って、豪華な食事に在り付きます。宴もたけなわとなり、
御酒を召した小町娘たちの頬がほんのり色づき、ビエロの空腹も満たされた頃、我々はそっと
退散します。これも失われた風景の一つです。

2012年8月2日木曜日

宵越しの金は持たねえ


  ここは、浅草伝法院通りです。浅草には、土地柄、舞台や芸事に纏わる店が、数多くあります。
私も学生時代に、よく通ったものです。もっとも、私が通っていたのは、裏通りの安い古着屋で、
資金の乏しい学生演劇部員では、表通りのお店の商品には手が届きせんでした。浅草の町には、
江戸情緒が上手に残されていて、仲見世通りには、江戸から続く店も沢山あり、当時と変わらない
物を売っています。写真に写っている店の鎧戸に描かれている浮世絵も、江戸を代表する文物
(ぶんぶつ)の一つです。浮世絵は西洋の印象派の画家達にも大きな影響を与えましたが、当初は、意外にも、陶磁器や漆器の包装紙として、西洋に渡りました。
  浮世とは、古くは「憂き世」と書いて、「辛く苦しいこの世」という意味でしたが、浄土宗や
浄土真宗などの鎌倉仏教によって、人々の間に、仏教の世界観が浸透すると、「来世」に対する
「現世」という意味に転ずるようになりました。仏教では、魂の精神世界である来世こそが、
真実の世界であり、現世は、肉体に宿った魂が精神修養をするための、かりそめの世界である
としています。憂き世は、「はかなきこの世」を意味するようになり、浮世(ふせい)という字を充てる
ようになりました。
  江戸時代になると、度重なる災害によって人々の心の中に、深く厭世観が広がるようになります。18世紀の日本は、数年於きに、地震や洪水などの天災や、大火などの人災に見舞われました。富士山や浅間山の噴火の影響もあって、平均気温は今より5度も低かったようで、冷害や飢饉が毎年のように繰り返され、食糧不足により、大規模な一揆や打ち壊しも、頻発しました。
    しかし一方で、江戸の人々は、「どうせ、はかなきこの世なら、楽しく笑って過ごそう。」とします。このような享楽的な処世観は、江戸気質(かたぎ)という形で根付き、粋やいなせといった価値観を生み出します。人々は、歌舞伎や浄瑠璃や落語といった芸能、絵草子や浮世絵や瓦版といった出版物を創り出して流行らせます。江戸気質は、浮世に「享楽的ではかなきこの世」という意味を持たせて、それを、浮世絵で切り取って見せました。

  当時最大の娯楽は、色事でしたから、浮世絵の多くは、美人画や春画でした。江戸の若者は、
花魁の美人画を買って、仕事で稼いだ金を握って、吉原の遊郭へ足繁く通っていました。若者達は、「宵越しの金は持たねえ」と嘯(うそぶ)いて、我こそは、江戸気質の体現者であると吹聴しました。しかし、彼らは、自棄(やけ)になっていた訳ではありません。
    江戸幕府は、綱紀粛正と称して、倹約令を発布して奢侈禁止を徹底し、芝居小屋を江戸郊外の浅草へ移転して、寄席を閉鎖するなど、町人に遊興を止めさせるために、厳しく風俗を取締りました。彼らの行動は、このような幕府の粛清に対するささやかな抵抗なのです。「ふざけんな倹約なんかするもんか。芝居見物も廓通いも止めねえ。」という思いを、「宵越しの金は持たねえ」と表現したのだと思います。
  芝居小屋が移転された浅草は、その後、娯楽の中心地となり、現在に至ります。ですから、浅草には、今でも、粋でいなせな江戸気質が息衝いているのです。

2012年7月29日日曜日

今月今夜のこの月を


 私が喫煙所にしている外階段の踊り場から月が見えます。ただ見えるだけではありません。
明るく輝いて見えるのです。都内の住宅街は意外に暗いのです。隣家の屋根が街灯を隠して、
近所の家が雨戸を閉めてしまうと、新月の夜などは、漆黒の闇と言った景色になります。
満月の時などは、殊更に明るく、踊り場の灯りを落とすと、くっきりと影ができます。
このような夜に煙草を喫っていると、決まって、尾崎紅葉作「金色夜叉」の一節が頭をよぎ
ります。
 金に目の眩んだお宮が、熱海の海岸で寛一を袖にすると、寛一は我を忘れてマントを翻し、
お宮を下駄で足蹴にして、こう吐き捨てます「今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」と。
 しかし、この一節、「あれおかしいな?」と思ったことはないでしょうか。翌年の同じ月、
同じ日の月が、同じ月とは限りません。明治時代、熱海の海岸に街灯などはありませんから、
夜に散策をしたのであれば、くっきりと影ができるほど明るい月が出ていたに違いありません。
その明るい月を「曇らせてみせる」と言うからこそ、寛一の無念さが伝わるのであって、三日月
や半月ではいけません。
 ご安心ください。尾崎紅葉が筆を執っていた頃、翌年の同じ月、同じ日の月は、やはり、
くっきりと影ができるほど明るい月が出ていた筈だからです。明治政府は欧化政策の一環として、
暦に太陽暦を採用しましたが、簡単に普及したわけではなく、民間では、依然として太陰暦が使
われていました。
 月の満ち欠けによって暦を刻む太陰暦では、一日は新月、15日は満月と決まっています。
だからこそ、寛一は、「今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」と言い放てたのです。 
さて同様に、新月は仏滅、満月は大安と決まっていますから、寛一は、大安吉日である十五夜
の満月の晩に、お宮を誘い出して求婚しようとしたに違いないのです。
 因みに、尾崎紅葉作「金色夜叉」は、完結していません。寛一とお宮の悲恋物語は、紆余曲折し
てよたよたしながら、最後には断ち切れになってしまったのです。明治らしい、なんとも大らかな
結末ではありませんか。

情報は世界を征す


  「世は、将に、情報化時代である。」という事になっています。
1950年代に、アルビン・トフラーは、その著書「第三の波」の中で、
農業革命、産業革命に次ぐ、脱産業社会の到来を予言しました。
    当時の人々は、その予言を全く信じませんでしたが、1999年に
ノストラダムスの予言が外れて、2000年問題が不発に終わり、21世紀
に突入すると、誰もがトフラーの予言は的中したと思うようになりました。
 この情報化時代の到来は、コンピューター(電子計算機)の技術革新
によって、もたらされました。CPU(中央演算装置)の速度は、GHz(ギガ
ヘルツ)を超え、1TB(テラバイト)のHDD(ハードディク・ドライブ)が、ポケット
に入る様になりました。
  GHz(ギガヘルツ)のCPUとは、1秒間に1億文字を情報処理することが
できる能力であり、1TB(テラバイト)のHDDとは、1兆文字の電子情報を格納
できる装置です。人類は、僅か50年で、コンピューターの処理能力を、
このレベルにまで、向上してしまいました。
 実は、コンピューターの発達と宇宙開発とは、非常に深い関係にあります。
1960年、最初のコンピューターが開発されてから10年後に、アメリカの
ケネディ大統領は、「ソ連を必ず抜き返し、60年代の終わりまでには、
アメリカ人を絶対に月に送ってみせる。」と公約して、1970年にアメリカは、
アポロ11号でアメリカ人を月へ送り込みました。
  アメリカにとって、人類を月へ送り込むロケットを開発することは、さほど、
難しいことではありませんでした。問題は、ロケットを正確に月へ到達させる
ために必要な、月と地球との位置関係が最適な日時と、最適な発射角度と、
最適な運行速度を算出することでした。これらの数値は、ニュートン力学の
公理に基づき、微分方程式で表すことができます。
  しかし、表された微分方程式が解を持つとは限りません。むしろ、解を持つ
方程式は圧倒的な少数派で、しかも、ニュートン力学の公理に基づいて表現
された微分方程式は難解で、簡単に解くことはできませんでした。
 前者の課題、解を持つ微分方程式を見分ける方法は、19世紀末にフランス
の数学者コーシーによって発見されていました。残されたのは、後者の課題、
難解な微分方程式を解く方法を見つけることでした。微分方程式を解くためには、
複雑な計算(積分)を何度も、何度も繰り返して、存在する関数に辿り着く必要が
あります。しかし、解に辿り着けなくても、複雑な計算(積分)を何度も、何度も
繰り返せば、限りなく解に近づくことはできます。要するに、複雑な計算
(積分)を何度も、何度も繰り返し行える装置があれば良い訳です。それが、
コンピューターでした。
 当時のコンピューターは、真空管やトランジスタを利用した比較的処理能力
の低い計算機でした。しかし、1957年に、江崎玲於奈が開発した半導体
ダイオードによって、コンピューターの処理能力を飛躍的に向上させることが
可能になりました。
 これで、全ての条件が揃い、ケネディ大統領は、「アメリカ人を絶対に月に
送ってみせる。」と公約できたのです。その後、処理能力を飛躍的に向上させた
コンピューターは、宇宙開発のみならず、ビジネスや生活に利用されるように
なった事は、周知の通りです。
 人類は、農業革命によって、人々を飢餓の恐怖から開放し、産業革命によって、
人々を過酷な肉体労働から解放しました。しかし、脱産業社会の到来は、
人々を何から解放しようとしているのでしょうか。私は、脱産業社会の到来は、
人々を3次元空間の呪縛から開放しようとしていると、考えています。
人々の存在空間は、バーチャルな空間に爆発的に拡大しています。
 産業は、地球を飛び出して、宇宙に展開しようとしています。空間(場所)
を共有することは、重要な意味を持たなくなり、物理的な距離は、阻害要因
ではなくなっています。しかし、農業革命がもたらした富が、人々を争い事
に駆立て、産業革命が核兵器を産出したように、脱産業社会が産出した膨大な
情報は、人々に重く圧し掛かって、心や精神を痛めつけています。
 かつて、チャップリンは、映画「モダンタイムス」の中で、産業革命によって
産出された機械に、隷属させられる人の姿を描きました。機械が、道具であり
手段であるように、情報もまた、道具であり手段です。手段が目的やゴールに
なることはあり得ません。人が、情報という手段を使って、世界を征すること
があっても、情報が人を征する事は、在ってはならないのです。
タイムトンネル

2012年7月25日水曜日

古い窓ガラス


 この古い木造家屋は、だるま宰相と呼ばれた高橋是清翁が住んだ邸(やしき)です。
是清は、勝海舟の息子小鹿(ころく)と伴に、アメリカへ留学しますが、仲介者に
学費や渡航費用を着服され、農奴として売られるなど苦労を重ねます。帰国後は、
英語力を活かして教員になります。東京大学予備門英語教員時代に、俳人の正岡子規や
日本海海戦作戦参謀の海軍中将秋山真之を指導したことは、小説「坂の上の雲」
に紹介されたことで有名になりました。文部省御用掛を兼務した後、農商務省御用掛に
転じて頭角を現します。
 この邸を建てた頃は、日本銀行副総裁を勤めていました。邸の南と東に張巡らされた
ガラス窓は、正しくは「硝子障子」と言います。電燈が普及していなかったこの時代、
太陽や月の明りを室内に取り込むことは、家を建てる上での重要なテーマでした。
是清がいた頃のアメリカでは、既に板硝子の量産が始まっており、暮していた家の窓
にも硝子がはめ込まれていた筈です。ガラス窓を通して差し込む、太陽や月の光は、
眩しかったことでしょう。その上、断熱や保温効果の高いガラス窓に、是清は、憧れを
抱いたに違いありません。
 この邸が建った二十世紀初頭、日本での板硝子の生産は、まだ、始まったばかりでした。
国内生産が始まるまでの板硝子は、全て輸入品で、個人の家屋に使用するには高価すぎました。
農商務省に勤めていたことのある是清は、板硝子の国内生産が開始される時期を知っていて、
板ガラスの国内生産が開始されまで、この家の着工を待っていたのでしょう。
待っていた甲斐があって、この邸には、ふんだんに板硝子が使われています。まるで、
辛く苦しかったアメリカ時代を払拭するように。
 さて、板硝子には、庭の木々が映り込んでいますが、上手く像が結べていません。
これは、ピントが合っていない訳でも、硝子障子の建て付けが悪いわけでもありません。
この時期に製造された板硝子は、一枚、一枚、職人が手作業で製造しており、表面には、
僅に凹凸があります。このため、写りこんだ木々は、微妙に歪み、乱反射して、
キュビズムの絵画のように見えるのです。是清翁は、この硝子障子から見える庭木の
遥か向こうのアメリカやヨーロッパを見ていたことでしょう。
 この邸が建った数年後、日本は、日露戦争に突入します。是清は、戦時公債募集
のために欧米を訪問します。彼の努力で、日本は、戦争を継続することができました。
教え子の秋山真之が、日本海でバルチック艦隊を撃滅すると、やがて、戦争は日本の勝利
で終結します。
 その後、是清は、六度、大蔵大臣に就任して、片面だけを印刷した急造の二百円札を
大量に発行して、昭和の金融恐慌を沈静化させ、世界恐慌により引き起こされたデフレ
経済から、いち早く、日本を救出して見せました。しかし、時代は、青年将校を唆して、
この邸の二階で、是清翁を絶命させてしまいました。近年、暗殺される政治家がいないのは、
暗殺するに足る政治家がいないためだと、皮肉を言う評論家がいますが、デフレ経済に
溺かけている政治家を、「哀れ」と思っても、沈めてしまう価値は無いのかもしれません。