5.「ノアの方舟(第五章から十章:但し、「ネピリム」の物語を除く)」の物語は、大洪水について述べています。ノアは、アダムから数えて十代目、アダムが生まれてから、1,056年後に生まれています。アダムは、930歳まで生きたので、ノアが生まれる126年前に亡くなっていますが、ノアの父、レメクの代までは生きていました。つまり、神は、アダムが生きていたメレクの代までは、アダムの犯した罪を許しませんでしたが、アダムが死んで神に召されたことによって、その罪は許され、地ののろいは解かれることになったのです。ノアの誕生はその象徴です。ですから、レメクは、ノアが生まれた時に、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの(第五章二九節)」と言ったのです。
創世記には、レメクという名の人物が、もう一人登場しています。妻たちに「レメクのための復讐は七十七倍(第四章二四節)」と言ったカイン家系七代目の子孫レメクです。この二人には共通点があります。セツの子孫であるレメクは、のろわれた土を耕す最後の者となり、彼の子孫(ノア家系)は、骨折り働くことなく土を耕す者となりました。カイン家系の子孫であるレメクは、カインの子孫であるが故に迫害された歴史に終止符を打ち、彼の子孫を、土を耕さない者の祖としました。アダムの子孫は、レメクの名によって、呪縛から解き放たれたのです。
セツとカインの子孫には、もう一つ、共通の名前があります。エノクです。セツ家系七代目の子孫エノクは、メトセラを生んだ後、300年、神とともに歩み、神に取られて居なくなってしまいます。神は、エノクを、何処へ遣ったのでしょう。エノクが居なくなるのは、アダムの死から、57年後のことです。アダムの死は、地ののろいが解かれる事の象徴であり、それはすなわち、アベルの恨みと憎しみが治まり、地獄から開放された事を意味します。神は、アベルの呪縛から解き放たれて、町を建てたカインに、セツの子孫エノクを子として遣わして、カインが建てた町に、神とともに歩んだエノクの名を付け、エノクによって、カイン家系を安堵したのです。
これらの話には、不思議な数字の符合があります。カインのための七倍の復讐、カインの子となったエノクは、セツ家系七代目の子孫。カイン家系七代目の子孫レメクための復讐は、カインの七倍に七を重ねた七十七倍。セツ家系七代目のレメクがなくなったのは、七十七倍に七を重ねた777歳。
さて、神は、神の子アダムの罪のためにのろわれた地を清めるために、大洪水を起して、創造した人を地のおもてからぬぐい去ることにします。この時、アダムの死後に、セツ家系に生まれたノアに課せられた使命は、巨大な箱舟を造って、神の前に恵みを得たノアとその妻と、三人の子供と夫々の妻、清き獣と清くない獣、空の鳥と地に這う全てのものを、造った箱舟に入れて、洪水の間、その命を保つことです。
神の怒りは激しく、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつもわるいことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう』(第六章五節から七節)」と言い、また、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上で道を乱したからである。そこで神はノアに言われた。『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう』(第六章十一節から十三節)」と言いました。
しかし、神は誰を滅ぼそうとしたのでしょう。ノア以前のアダムの子孫は、皆、ノアが六百歳の時に起きる洪水の前までに死に絶えてしまいます。ノアとその子と妻達は、方舟に入って生き延びますから、この洪水でなくなるユダヤの民はいません。大洪水物語の本編は、「ネピリム」の物語の後から始まり、「バベルの塔」の物語の前で終わります。ネピリムは、アトランティス十王家の祖たちを示し、バベルの塔は、アトランティス滅亡を示していますから、大洪水物語は、アトランティスを中心とするギリシャ世界の崩壊と、ユダヤの民救済の物語です。
神はノアに、「箱舟の長さは、三百キュピト、幅は五十キュピト、高さは三十キュピトとし、箱舟に屋根を造り、上へ一キュピトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい(第六章十五節)」と指示を出しますが、この指示は、真に、的確です。縦:横:高さの比が、30:5:3というのは、現代の大型輸送船を建造するための理想的な比率と、ほぼ等しい比率だからです。4万トン程度の排水量があり、神の使命を充分に果たせると言えます。余談ですが、長い間、雨が降る続いたことで、気温は、急速に下がった筈ですから、箱舟の中の動物達の殆どは、冬眠状態になったと思われますので、世話はさほど大変では無かったことでしょう。
ノアは、預言者です。神はノアに言葉を預け、ノアは預かった言葉の通りに行動します。神がノアに預ける言葉は、ノア(預言者)に示す道であり、人々に対する啓示であり、未来に起こることへの予言です。ですから、大洪水物語にもこれらの要素が含まれている筈です。まず、数字ですが、物語には、回帰数が多く使われています。回帰数とは、例えば、1=一日、4=四季=1年、7=一週間、365=1年といった数字の事です。先にアダムの家系での回帰数7の符合について述べました。もう一つは、意味数で、例えば、太陰暦であったユダヤ暦では、1=新月=礼拝の日、2=夫婦(つがい)、15=満月といった数字の事です。では、これらの数字を基に、大洪水物語の経緯を見ていきましょう。
神は、「あなたと家族とはみな箱舟に入りなさい。-中略-七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を地のおもてからぬぐい去ります(第七章一節から四節)」と言います。神が言葉を預ける日は、安息日ではあり得ません。従って、洪水が起こる7日後も安息日ではありません。神は、ノアが仕事をすることが出来る日(安息日でない日)を選んで洪水を起こます。四十日は、4=1年の10倍の40年、それに40夜を重ねますから随分と長い間ということを表しています。「それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。水はしだいに減って、10月になり、十月一日に山々の頂が現れた(第八章三節から五節)」。150日は、5回の満月が経過する日数であり、五ヶ月を意味します。ユダヤ暦では、一月は29日であったり、30日であったりするので、15もしくは、30の倍数を1月の回帰数としています。洪水が始まった二月十七日の五ヵ月後の七月十七日に、箱舟はアララテの山に留まります。水は、洪水発生の190日後(40日プラス150日)のユダヤ暦9月1日の礼拝の日に減り始め、次の月、十月一日の礼拝の日に山々の頂が現れます。
40日後、ノアは、箱舟からからすとはとを放ちます。からすは戻ってきませんが、はとは、足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟に戻ってきます。七日後、再びはとを放つと、オリーブの若葉を銜えて戻ってきます。さらに七日後、三度はとを放つと、はとは戻ってきませんでした。からすは悪魔の象徴であり、はとは守護天使の象徴です。神は予めノアに、箱舟に清くない獣(からす=悪魔)を乗せるように命じてます。しかし、神は、ノアが箱舟から出た時、彼と共にいたすべての生き物とも契約を交わすことになっていました(第六章十八節)から、からすは箱舟を出る前に放してしまわなければなりませんでした。はとに姿を変え、神からノアとその家族を守る使命を与えられていた守護天使は、初めて放たれた時、安全の確認が出来ないため箱舟に戻り、再び放たれた時には、地に、エデンの園と同じ様に、食べるの良い木であるオリブの木が生えている証を持ち帰えり、人に良い知らせをもたらす守護天子の役目を果たしました。三度放たれた時は、安全である地を見て、役目が終わったことを悟り、箱舟には戻りませんでした。ノアは、守護天使であるはとが戻らない様子を見て安堵します。
「六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもてはかわいていた。二月二十七日になって、地は全くかわいた(第八章十三節から十四節)」。一月一日、ユダヤの民にとって一年で最も重要な礼拝の日に、地の上の水はかれます。二月二十七日は、洪水が始まった二月十七日から数えて、一年と10日目に当たります。ユダヤ暦の1年は355日なので、太陽暦の一年(365日)目という回帰数に当たります。ユダヤには、過ぎ越し祭という重要な行事があり、それは、神が、エジプトの民が、ユダヤの民の長子を殺した報復として、エジプトの長子を皆殺しにする時に、戸口に羊の血の印のあるユダヤの民を過ぎ越したことに由来すると云われていますが、実は、過ぎ越しは、ノアの方舟が、洪水という神の怒りを過ぎ越したことが起源であり、この物語が後の人々への過ぎ越しの啓示となっているのです。
ここで、洪水に纏わる回帰数、神の預言から洪水が起こるまでの7日間、雨が降り続く四十日四十夜、水が減る百五十日、からすとはとが放たれる四十日後、再びはとが放たれる七日後、三度はとが放たれる七日後を全て加算すると、291日になりますが、この数値には、回帰数4が含まれていることで、291年と読みかえることができます。ユダヤの民の祖といわれるアハブラハムが生まれるのは、洪水の二年後にセムの子アルバクサデが生まれた290年後で、洪水後、291年目です。これは、アブラハム誕生の予言です。
ノアは、二月二十七日に、神に促がされて箱舟を出ました。「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた(第八章二十節)」。これは、ノアが、「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった(第六章九章)」であったことの証で、ノアが、のろわれた地の産物を供え物にしたカインとは対象的に、正しい祭り事をしたことを示しています。神は、燔祭の香ばしいかおりをかいで、「わたしはもはや二度と人ゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない(第八章二二節)」と決意します。人は、幼い時=未熟=無知ゆえに、悪い事を心に思い図る者だから、今後は、アダムのように、無知ゆえに人が犯した罪を理由に地をのろうことはしない。のろわれた地を清めるために、洪水を起すことはしないということです。
神は、使命を果たしたノアとその子らを祝福して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない(第九章一節から三節)」と言います。この言葉は、先に、「罪と罰は、因果応報であり、全ては人(カイン)の行いに起因している。」と述べたことと同様に、贖罪と免罰、善行と祝福も因果応報であることを示しています。アダムとノア以前の子孫は、「あなたは一生、苦しんで食物を取る。-中略-あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る(第三章十七節から十九章)」という神の罰を受け続け全うすることによって、罪を贖ったので、神は、洪水を起して、のろわれた地を清める事で、ノア以降の子孫に、罰を与えるのをやめます。また、ノアとその家族が、箱舟を造って、洪水の間、動物達の命を保つという善行を行ったので、すべて生きて動くものを食物として与えるという祝福をします。これによって、無知によってアダムが犯した罪に端を発する因果律の時代が完結して、新しい時代が到来したことを示しています。血は、アベルの恨みと憎しみの象徴ですから、血のままで食べるなとは、動物に対して、恨みや憎しみを抱かせるような行いをせず、差し出した命に感謝して食べるようにとの戒め(啓示)です。神は、さらに、「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう(第九章五節)」と言います。これは予言です。後に、モーセが世に現れようとした時に、エジプト人は、畏れてユダヤの長子を皆殺しにしますが、神はこれに報復して、エジプトの長子を皆殺しにします。
新しい時代が到来する時、神が人と新しい契約を取り交わすということが、ユダヤの約束事です。神は、「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることなく、また
地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう(第九章十一節)」と言い、そのしるしとして、雲の中に虹を置きます。虹は、止まない雨がないことの象徴であり、契約の証です。
この物語は、神がノアに与えた預言によって締めくくられ、最後に、ノアの子、セム、ハム、ヤペテとその子孫が誰で、何処に住んでどの氏族の始祖になったかが書かれて、終わっています。神は、ノアの口を借りて、「彼は言った。『カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える』。また言った、『セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ、神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ』(第九章二五章から二七章)」と予言しました。
ノアは、この予言をする前に、酒に酔って天幕の中で裸になっています。裸は、善悪を知る木の実を食べる前のアダムとエバが、「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった(第二章二五節)」とあるように、無知を象徴しています。セムとヤペテが、父の裸を見ずに、着物で裸を覆うのは、善悪を知る木の実を食べた後にアダムとエバが、イチジクの葉で体を隠すこと、すなわち、無知に対しての有知を象徴しています。ハムが父の裸を見て、何もせずに兄弟に告げる行為は、ハムが人の無知を放置したことを意味しています。「カナンはのろわれよ」とありますが、神は人をのろいませんから、カナンは、カナンの地のことを示していて、カナンの父(始祖)であるハムが、人々の無知を放置したために、後に、カナンの地が大いに乱れることを示しています。「彼」とは、カナンに住む人々のことで、「しもべは」は、神のしもべである預言者のことで、カナンの地は預言者に統治されて、人々はその家族と同朋に仕えることなることを示しています。「セムの神」とは、セムの子孫から、次の時代を指導する「主はほむべきかな」主がほむべき預言者、アブラハムが誕生する予言です。カナンの地は、アブラハムに統治されることになります。「神」はアブラハムの事で、「ヤペテ」はヤペテの子孫が住んだ海岸の地の事で、その地が、アブラハムが統治した国々(セムの天幕)に加えられて、大いに栄えたこと、カナンの人々がその統治を手助けすることを示しています。
観て来た様に、創世記は、荒唐無稽な作り話ではありません。聖書は、象徴的な事物や、矮小化された比喩によって、預言者(人)に道を示し、人々に啓示を与え、未来に起こることを予言しているのです。エデンの東ノドの地は、罪を犯したカインが、あてもなく希望もなく流離った地です。しかし、ノドはのろわれた地ではありません。アダムが亡くなって、アベルの恨みと憎しみが治まると、神に遣わされたエノクの名を町付けて繁栄していきます。ユダヤの神は、怒れる裁きの神であると思っている人も多いようですが、罪と罰、贖罪と免罰、善行と祝福の因果律という法の守護者であり、人との契約を忠実に履行する庇護者であるというのが、本当の姿であると私は信じています。
ちなみに、950歳まで生きたノアは、アブラハムが誕生した時には、まだ、生きていたことになっています。アダムの時代は、贖罪の時代であり、犯した罪に起因する罰を受け続けて、許されて神に召されることで新たな時代の礎と成りました。ノアの時代は、祝福の時代で、贖罪によって清められた地に、祝福されらされた人々が繁栄していきます。それは、ノア以降の時代、アブラハムの時代以降にも受け継がれていきます。ですから、ノアはアブラハムが誕生するまで生きている必要があったのです。

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